文政期の家政改革

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四代当主嘉右衛門による家政改革の基本は質素倹約、堅実経営への転換にあった。文政三年作成の子どもや母・妻・弟あての遺言状では「酒方、質方、醤油方そのほか有り来たる田・山の分年々相改め、右の徳分出方に随(したが)ひ新規暮らし方取り締まり相建て申すべき事」、「家内暮らし方の儀は、酒造方、質方、醤油方、田・山、西木町家賃にて規矩(きく)(規則)相立て、四ツ割り一非常の備えに除き置き、その余年々入用に相立て申さるべく候」、「金子有余出来(きんすゆうよしゅったい)候とも決して借(貸)(かし)付け・預り金等致さるまじく候」、「平日質素に相心懸け、入りを量(はか)り候て出ス事を計り候義、身上(しんしょう)取り続き肝要にて候間、よくよく相心得申さるべく候」と述べて、利貸し経営の拡大を戒(いまし)めつつ、収入に応じた堅実な暮らし方を求めたのである。また、文政六年正月の「草稿」(遺言書草稿)でも、「決して新規の事致すまじく候」と、新規事業の禁止を申し渡している(『松代八田家文書』国立史料館蔵)。


写真16 文政6年(1823)八田嘉右衛門遺言書草稿
  (『松代八田家文書』国立史料館蔵)

 文政九年の「内々御尋ねに付き書取」(『松代八田家文書』同前蔵)には、重役レベルと思われる奉公人から提案された経営再建策が書きとめられている。その内容はつぎのとおりである。①質商いは商人質のみを取り扱い、今後小質は取り扱わないこと。②年貢作徳滞納への対処として、所持地は住居地(伊勢町・鏡屋町の居屋敷)、東・西木町抱屋敷(二ヵ所)、中町抱屋敷(一ヵ所)、田町抱屋敷一円、荒神町窯場(かまば)・裏地続きの分、東福寺村分畑(二ヵ所)、持山のみとし、それ以外は売却すること。③専任の貸し付け金取り立て人を任命し、取り立て金高に応じた手当てを支給すること。④無尽金の掛け金は店方からの出金とし、取り入れ金は積み立てておいて奉公人の出精手当て金や非常のさいの手段金引き当てに使用すること。なお、新規の無尽加入は断わること。⑤暮らし方は質素を第一とすること。

 こうした意見のうち質物の取り入れについては一時見合わせなどの措置がとられたが、所持地の売却などはほとんどおこなわれなかった。そして、八田家の経営はその後も好転することがなかった。このため同家では、天保末年と安政期(一八五四~六〇)にも質素倹約、所持地の処分(売却や質入れ)を柱とする勝手向き改革を実施せざるをえない状況に追いこまれるのである。