天保期(一八三〇~四四)の八田家の経営は、文化・文政期と同じく呉服店、酒造方(酒蔵・酒店)、質店、土地(地主)経営、利貸し経営などであった。なお、呉服店は、文化六年(一八〇九)から閉店していたが、天保七年(一八三六)ころに再開している。営業再開の背景には、天保四年に松代城下に産物会所が設置され、絹紬の専売制が開始されたことがあったものと思われる。前にも述べたように、四代嘉右衛門は会所頭取に任命されたが、同家は藩から融資された資金をもって、紬や生絹、白斜子(しろななこ)などの買い占めと一手販売にあたっていた。つまり、産物会所は、買い継ぎ問屋を通じてこれら商品を独占集荷し、これを松代で開かれた紬市に集まる三井(みつい)・大丸(だいまる)・布袋(ほてい)屋・岩城(いわき)屋・小橋屋などの大店(おおだな)商人や城下町周辺の在方商人に一手販売していたのであった(吉永昭「紬市の構造と産物会所の機能」、同「城下町御用商人の性格について」)。
ところが、この絹紬専売制は、生産者の反発や商人間の対立を招いて、集荷量・販売量が減少するようになった。このため、藩は、天保八年に産物会所の仕法替えをおこない、藩専売を中止して、会所への融資もとりやめた。八田家は、買い継ぎ問屋五人とともに絹紬売買所で同じく絹紬の買い占めと独占販売を継続しようとしたが、資金不足におちいり、三都大店商人からの融資に依存せざるをえなくなったのである。そして、八田家は、天保九年に上州高崎(高崎市)の布袋屋、弘化元年(一八四四)には三井の買い宿となった。買い宿とは、都市商人などから資金を得て、彼らの依頼により商品の買い入れ・集荷などをおこなう現地商人をいう。八田家は、天保七年ころから呉服店を再開し、同年には白絹・絹縞・白紬・白斜子など二三二七両余分を江戸向けに出荷し、六四両余の利益を得ている(『県史』⑦一〇七〇)。このときの仕入れ金がどのように調達されたのかわからないが、布袋屋・三井の買い宿となってからは、彼らからも資金が供給されるようになった。
酒造方(酒蔵と酒店)も天保期には営業がゆきづまっている。松代領では、天保四、五年は凶作のため穀留(こくどめ)が実施され、同五年には酒造も差し止めとなった。また、同六年はこれまでの酒造高の三分の一とされ、翌七年にはふたたび禁止された。八田家では、四年の九月には自家造りの酒が底をつき、同年と翌年は領内外からの買い酒をして急場をしのいでいる。両年で一四四石五升四合余を四五五両一朱余で買い入れたが、その約半分の六九石余は越後国小出雲(おいずも)村(新井市)、曽根田村・宮島村(板倉町)、四ッ屋村(上越市)など、頸城(くびき)郡村々からであった。また、領内では矢代村(千曲市)から二七石余を仕入れた。ちなみに買い入れた酒の銘柄は舞鶴・桃花・藤浪・松枝・谷川・養命酒・白鶴・吉野山など合計一五種類である。天保八年も酒造が差し止められることになったが、町方酒造人たちは、二年も禁止では暮らしていくことができないとして、領内米はいっさい使わず、越後米・飯山米一〇〇〇俵を買い入れて酒造をおこないたいと願いでた。半分を囲いおいて、半分を酒造用とすることで認められているが(『松代八田家文書』国立史料館蔵)、遠方からの酒・米の仕入れは、輸送費などの経費もかさんで経営を圧迫する要因となったのである。
天保九年から実行された家政改革に関する嘉右衛門の「口上書」(『松代八田家文書』同前蔵)では、「酒造商いが衰えたのは近年新株が増加したためであり、以前のように利潤を生むことがむずかしくなった。また、資金繰りが苦しくなって、借り入れ金で仕入れるようになったことも原因である」と記す。新馬喰町の専助は、天保八年に森村(千曲市)の又太夫がもっていた酒造株を譲りうけ、町続き地に酒蔵を引きとって酒造商売を始めたいと願いでた。これにたいして、松代城下町の酒造人たちは、米穀払底(ふってい)で酒造もたびたび禁止される折り、たとえ酒造株をもっていたとしても新規に酒造を始められると商売に差し支えるとして、しばらく差し止めるよう奉行所に願いでている。表5は、嘉永四年(一八五一)の酒造方勘定であるが、同年分は差し引き七三両余の赤字であった。
天保期においては、酒造方以外でも営業部門はすべて不振であり、天保四年には松井醤油店の支配をゆだねられていた喜助も商売不振(赤字経営)を理由に暇(いとま)願いを出している(『県史』⑦一〇四八)。また、天保十年には質店も一時営業を休止するなどしている(質店は同十五年に営業を再開)。そして、土地経営も同様に不振であった。さらに、嘉永元年からは杏仁(きょうにん)・甘草(かんぞう)の専売制も実施されたが、資金不足や抜け荷の横行などにより短期間で失敗に終わった(『市誌』③五章四節)。この専売制は、佐久間象山の発案によるものであり、杏仁・甘草を越後今町湊(いままちみなと)(上越市直江津)経由で大坂商人炭屋彦五郎のもとに送って売りさばこうとしたものであり、産物方元締役には八田嘉右衛門の役代(名代役)伝兵衛が就任した。なお、八田家は、この取り引きの過程で炭屋彦五郎(同人手代孫七)や同じく大坂商人で薬種問屋を営む小西彦七から二五〇両ずつ計五〇〇両を借り入れるなどしていたのであった。
こうした状況のもと、八田家では天保末年と安政期にふたたび家政改革が実施され、質素倹約の励行とともに「御手縮(ちぢみ)御手段」・「勝手向き取復手段」が模索(もさく)されることになったのである。表6は、安政五年ごろの八田家借り入れ金の状況であり、表7はその返済計画の一例である。ここからつぎのようなことがわかる。①借り入れ金の未返済分は一万両余にのぼっていたこと。②借り入れ先は藩(内借方や御金方)とそれ以外(松代藩士や町内商人のほか、上州高崎の布袋屋、須坂領の松沢宗四郎、杭瀬下(くいせけ)村(千曲市)の色部儀太夫など)に大別されること。③借り入れ金の返済は、藩からの分については西木町の抱屋敷売却代一〇〇〇両をそのまま藩に預け入れること(一割で運用すると二〇年目には六七〇〇両になるとする)。藩以外からの借り入れ(他借)分については酒造蔵などの質入れ金(五〇〇両)の利息や家賃収入、呉服店からの出金分など計一一〇両のうちの九五両をあてること。④したがって、八田家では当面藩から支給される扶持方(籾三〇俵玄米三〇人扶持)によって生計を維持する予定であったこと。なお、返済計画はこれ以外にもあって、田町抱屋敷の売却、八田店の店仕舞いによる商品処分、呉服店・酒店・油店の貸方金取り立て、扶持方の一部の差し出し、などをおこなうことによって借入金を返済するという内容のものであった。
こうした計画が具体的にどのように実行されたのかは不明であるが(酒造蔵の質入れなどは実行されている)、安政期以降の八田家の経営は、それ以前とくらべていちだんと縮小傾向にあった。そうしたなかで、これまで八田家の営業の中心であった呉服商いと酒造業は大正期ころまで営業がつづけられたのであった。