宝暦期(一七五一~六四)の八田家奉公人数は、年間を通じて三五人から四〇人ほどであり、宝暦十年の「人詰(にんづめ)帳」(男子のみ記載)によれば当主八田孫左衛門、娘婿(むこ)の新十郎、同人子嘉太郎の三人以外に役代伝兵衛、酒杜氏(とうじ)(行司)久兵衛、手代一二人、下人二〇人がいた。手代のうち二〇歳以下は七人であり過半を占めた。また、三〇歳以上は二人しかいない。下人は一九歳から四八歳までで、大半は二〇代後半から四〇歳までであった。なお、下人の年季は、一季または二季の短期である。
八田家に残る享保期(一七二八~三六)以降の奉公人請状(うけじょう)からは、①享保期以降、安永期(一七七二~八一)までは手代の出身地はほとんどが伊勢国(三重県)であり、天明期(一七八一~八九)から幕末期にいたるあいだは出身地が領内村々となっている。②年季は、一八世紀半ばまでは一〇年季が多く、その後しだいに短期になって、文化・文政期(一八〇四~三〇)には一年季となる(なお、天保末年には五ヵ年季の奉公人もあらわれている)。③伊勢出身の手代の場合は、一二歳から一五歳で採用されている者がほとんどであるのにたいして、領内からの採用者は二〇歳台が多く、なかには五〇歳台あるいは六〇歳台の者もみられる。以上のような特徴をあげることができる。そして、安永期以前の伊勢国からの手代採用は、このころまで八田家の資金の調達先が伊勢にあったということに照応していた(吉永昭「商家奉公人の研究」)。
下人については、①天明四年(一七八四)以降文政初年までは、ほとんどの年が四〇人をこえており、最高は寛政元年(一七八九)の六一人である。②しかし、文政四年(一八二一)・五年からは減少し、同九年には二〇人となる。そして、以後も漸減(ぜんげん)をつづけ天保四年(一八三三)・七年には一一人にまで減少する。減少の原因は、経営悪化によるものと考えられる。③下人は、二月から翌年二月までの一年間雇いの春抱えと、十月から翌年二月までの冬抱えとに分けることができるが、冬抱えの春抱えにたいする比率は天明期以降漸減し、文化元年の場合は冬抱えは皆無となる。また、同三年の場合も春抱え三五人にたいして冬抱えは七人にすぎない。④出身地をみると、春抱えの多くが松代周辺村々であるのにたいして、冬抱えのほうは山間部農村からが多い。冬抱えは農閑期を利用した出稼ぎ奉公であろう。⑤賃金は、天明年間ころは春抱えが一人平均一両三分、冬抱えが一分二〇〇文余、文化末年ころは春抱えが二両二分から三両二分、冬抱えが三分余であった(吉永昭同前論文)。
奉公人のなかに酒造を担当する酒杜氏(さけとうじ)がいた。杜氏は、八田家では、文政期までは酒造の先進地である上方(かみがた)から招いていた。延享二年(一七四五)には摂津(せっつ)国山田東下(ひがししも)村(大阪府吹田市)の茂兵衛を、寛延四年(宝暦元年、一七五一)には播磨国高砂(たかさご)町(兵庫県高砂市)の久兵衛を、それぞれ雇い入れていた(『市誌』⑬二七三、『県史』⑦九三〇)。茂兵衛の場合は、一ヵ年一一両という高給であった。その後、天保期には、杜氏は越後国(新潟県)から雇い入れるようになっており、天保九年九月に越後国頸城(くびき)郡塩屋新田村(新潟県上越市)彦市が一ヵ年一〇両で召し抱えられている。病気のため、彦市は同十一年十月に国元へもどったが、そのあとは栄吉が一ヵ年七両二分の給金で八田家の杜氏となった。栄吉は、彦市が同十年九月に越後国頸城郡から連れてきて酒蔵働きをさせていた者であった(『松代八田家文書』国立史料館蔵)。越後国からの杜氏雇い入れは、八田家が天保期に越後国頸城郡村々から酒を仕入れ、販売していたこととも関連があろう。
八田家の組織は、家政組織としての「内方」(茶の間)と営業組織である「店方」とに分化していた。「店方」には呉服店や質店、酒店をはじめとする店々があり、各店には責任者としての支配役がおかれて、いちおう独立した経営をおこなっていた。しかし、「内方」が各店を最終的に統括したのであり、「内方」は各店に資金を援助し、各店からは利益の一部が「内方」に上納されていた。そして、これらの上納金と家賃・小作料収入などで八田家の家計が賄われていたのである。「内方」の内部でも機能分化がすすんで種々の掛りがおかれていたが、金銭の受け払いをふくめて「内方」・「店方」のすべてを統括したのが元方(元方役)であった。元方がおかれた時期ははっきりしないが、元方による統括体制が整ったのは天保期と考えられる。なお、八田家では当主が藩に出仕していたため名代役として役代をおいていた。役代は一八世紀半ばにはその存在が確認でき、役代就任者は代々「伝兵衛」を名乗った(国立史料館『松代八田家文書目録』(その一)解題)。
役名や奉公人の配置については時期により異同があるが、天保七年の「掟(おきて)」には元方役、吟味役兼伝兵衛、家内締方兼表役人、賄役、茶の間当番兼買物役、地方(じかた)掛取立対談役、地方掛作業役、店方支配役、耕作方見廻役、酒杜氏、耕作方頭取、子供などの名前がみえている。
奉公人の管理・統制についてみてみよう。弘化四年(一八四七)の「店向規定帳」には奉公人の管理規定が記されているが、その内容はつぎのとおりである。①一四歳以下の子供を雇い、三〇歳まで年季奉公人として扱う。②三〇歳になったら退職させる。③一六歳で元服、一八歳で名前替えをおこない、二一歳で格席を定め、二四歳で帳場見習いにあたらせ、二八歳で店支配をまかせて番頭にとりたてる。④支配役を滞(とどこお)りなく勤めあげたのちは一年間の休息を許し(この間は新任者の後見を兼ねる)、希望があれば暖簾(のれん)分けを認める。⑤二一歳になるまでは、働きしだいで先輩を差しおいて上役に抜擢(ばってき)することもある。また、同年の「店人別規定帳」では、つぎのように定められている。①奉公人は一〇歳から一二歳までの子供を一五ヵ年季で雇い入れる。②一六ヵ年目に退職となるが、その年一年間は新任者の後見役を勤めさせる。③衣服はすべて支給する。④賃金は五年間は無給、六年目から一両、八年目から一〇年目までは三両と徐々に増加し、一四年目に一〇両となる。⑤一五年間の奉公期間が終了すると、その時点でそれまでの給金合計五〇両を支給する。⑥なお、年季内にやむをえない事情で退職する場合には前年までの給金合計を支給する。採用年齢や奉公期間などに若干の違いがあるが、一〇代前半の若者を非常に長期にわたって奉公させる形態をとったこと、しかも給金は、原則的には奉公期間終了後に暖簾分け資金として支払われたこと、昇進にあたっては一部実力主義を導入していること、退職は二五歳から三〇歳という働き盛りの年であったこと、などの特徴をあげることができる。この規定がどの程度実行に移されたのかは不明であるが、八田家は、奉公人にたいして犠牲的な奉仕を求めつつ、若い労働力の結集によって経営の活性化をはかろうとしたものと考えられる(吉永昭同前論文)。