善光寺東町の南につづく権堂村(鶴賀権堂町)は、石高六七〇石余の村で、江戸時代前期の一時期、尾張支藩松平摂津守義行(せっつのかみよしゆき)領となったが、あとは幕府領で一貫し、天保二年(一八三一)以降は松代藩預り所となる。善光寺門前町のはなやかさを引きうけたように花街が形成され、一部が町場化し権堂町とよばれた。権堂村名主永井幸一(さちかず)は、弘化四年(一八四七)当時の門前町のにぎわいをつぎのように記している。「市町は便利よく、炭・薪(たきぎ)・麻・木綿・雑穀を夥(おびただ)しく商う。北海へはおよそ一六里余り、朝夕に生魚を得、川魚は千曲・犀川よりすぐに集まり、田畑では二毛作ができる徳がある。その他山海の漁鳥、四季の菜、もやし、青物のたぐいは呼び声が消えないうちに鍋(なべ)に入る。織物の類は諸国の最新の製品を好む」。
権堂村では遊女屋のことを水茶屋(みずちゃや)とよび、茶屋という名目で営業した。茶屋は、客に茶を出して休息させる茶店から発展した各種の飲食遊興店をいう。江戸時代、旅行者を対象として道中筋に出現した茶店は、しだいに宿はずれにまで進出するようになった。宿駅保護のため食事や宿泊などはほんらい禁じられていたが、しだいに酒や肴(さかな)を出すようになり、やがて給仕女(きゅうじおんな)を置いて客を引く店もでてきた。お伊勢参りで知られる伊勢神宮などの大社には、精進(しょうじん)落としなどを名目に、一服一銭(いっぷくいっせん)の安い茶を飲ませる店ができ、しだいに給仕女による接待がめあての客が増して水茶屋などとよばれ、しだいに家構えの店もできた。権堂村には、元禄十三年(一七〇〇)の善光寺と門前の火災のころから水茶屋がつくられ、町並みができはじめたらしい。以下水茶屋の増加と繁盛のようすについてみてみよう。
寛保元年(一七四一)、幕府坂木代官浅岡彦四郎から、善光寺宿問屋にたいしてつぎのような問い糺(ただ)しがあった。「権堂村では、茶汲女(ちゃくみおんな)・給仕女をかかえた茶屋に男女が出入りしてにぎわっている。往還筋でもない百姓家での水茶屋渡世はあってはならないことである。権堂村の名主ならびに長百姓を召しだして糺したところ、権堂村役人は、村に水茶屋渡世が多いのは、往古より加賀藩およびその他の大名通行が重なったさいなど、善光寺では宿泊しきれずに村へも休泊する。往還筋では往来人への売買の利得で家作、座敷などの修理をおこない、見苦しいことのないように心がけているが、裏道筋の権堂村では往還筋のような稼ぎができず、家作・座敷を整備するにも難渋している。少しの座敷があるものも、宿泊の御用が散漫なため平日不要の座敷を使って水茶屋・揚酒(あげざけ)などの渡世をし、その利得で座敷などの修理をしている。そのため水茶屋稼ぎが必要だ、といっている。権堂村で大名などが休泊するのは本当か」。善光寺宿問屋・年寄らはこれを認め、権堂村での水茶屋渡世はこのころにはなかば認められていた(『市誌』⑬一八三)。このころの権堂とは、善光寺東町からまっすぐに南下する南北の通りをさし、北国街道からは東に入り、街道には面していなかった。
宝暦元年(一七五一)、一四七八軒を焼失した善光寺町大火のとき、権堂の水茶屋も類焼した。このとき検分にきた中之条代官浅岡彦四郎に麦兵衛(のち喜兵衛)が駕籠訴(かごそ)し、金子五両で水茶屋七軒の許可を得た。麦兵衛は越後から二、三十人の女をよびよせ、水茶屋営業を望む一一人に女一人につき仕切金二両、利息二〇〇文、入用金として一人一日につき一二文を申しつけ、さらに、夜具・蒲団(ふとん)それぞれを一ヵ月六五〇文で貸しつけた。これは一年で一〇両余、本利とも都合一一五両余にものぼる額であった。女を預かった一一人は、麦兵衛を親方として一二年間(宝暦十三年まで)営業してきたが、借金の返済につまり、麦兵衛は仕切金や呉服物などの月切算用が少しでも遅れると、不届きといって家に踏みこみ、打擲(ちょうちゃく)するなどした。麦兵衛のわがままぶりに耐えかねた一一人が村役人へ届けでるという事件が起こった(『県史』⑦一四一六)。これにより、宝暦元年以前の茶屋は七軒で、それ以降一一軒になり、遊女は一軒あたり二、三人程度であることがわかる。このころはまだ規模が小さかった。
文化元年(一八〇四)、権堂村の村役人みずから一四軒の茶屋営業停止を中之条代官所へ訴えた(『権堂町史』)。その内容はつぎのとおりである。「百姓兵左衛門以下一四人は、茶屋商売と申して給仕女を召し抱え、貸座敷などをしている。これまでは少々のことであったから見逃してきたが、近年になってしだいに増長し、御上をも恐れず、御法度にそむくような営業ぶりである。村役人が茶屋の者に申し聞かせたが一向に守らない。毎度御禁制の儀ではあるが、さらに検分し、売女(ばいた)風のものはいっさい置かせぬよう、取り締まってもらいたい」。茶屋勢力の増大に、村役人でも対処しかねる状況が生まれている。
文政十二年(一八二九)、中之条代官大原四郎右衛門の取り締まりでは、「百姓はほんらい農業をもっぱらとすべきところ、このごろ人情軽薄になり、労をいとい、利を望み、茶屋渡世のものが増加している。本業を怠っている証拠には、村高の七、八分どおりが入作であり、他村の所有である。このままでは権堂村は亡村となってしまう。今後は本業にはげみ、茶屋渡世を減らし、村高を引きもどすようにせよ」とし、つぎの四条について水茶屋渡世の七人と村役人から請書(うけしょ)を取っている(同前書)。それによると、①茶屋渡世の者のなかには、身持ちが悪く、やむなくこの村で借家をして水茶屋をはじめる者があるが、もってのほかである。今後の新規開業は認めない。②善光寺町続きのにぎやかな場所ゆえ、時々の喧嘩、出入りがあるが、その仲裁は村内老輩・頭立(かしらだち)がおこなうこと。③寺院・社人が仲裁するのは心得違いである。④村の入用や諸夫銭の無駄を省くように。この年水茶屋は三〇軒に増える。
権堂村には、名主をはじめとする村役人のほかに、おもに水茶屋を取り締まる組頭兼取締役がいた。彼らは茶屋などへの金融のあっせんをはじめ、しだいに茶屋の肩をもって行動するようになり、先の訴えからは一変して、この取り締まりでは水茶屋とともに領主にたいし請書を出している。
天保二年(一八三一)には抱え女が二三八人にのぼり、同十五年に水茶屋は三四軒になり、これ以上の開業が禁じられる。以後水茶屋は三四軒、ここから遊女を呼んで遊興させる揚(あげ)茶屋は一一軒となった(同前書)。
こうした茶屋営業権は「茶屋株」として売買されるようになった。弘化四年(一八四七)三月二十四日の善光寺地震では、権堂村は地震のゆれと火災で八九パーセントの家が焼失するという壊滅的な被害をうけた。翌年二月、茶屋渡世をおこなってきた権堂村の寅吉は、善光寺大地震で店が焼失したため栗田村(芹田)に土地を借り菓子屋をはじめた。元金が乏しかったためか軌道にのらず、金策として自分持ちの茶屋株を貸しつけたいと村役人に願いでた(『市誌』⑬二二一)。それによると、寅吉は藤田屋はるにたいし、茶屋株を当年二月から戌(いぬ)年(嘉永三年)二月までの二ヵ年間貸しつけるというものである。金額は不明であるが、鑑札営業であった茶屋株貸借の事実がわかる。
善光寺地震以後、いち早く復興した権堂の町は、従来の権堂通り(表権堂通り)といわれる通りの東がわに並行して、南北に裏権堂通りが生まれ、以前にも増して繁盛するようになった(図3)。これにたいし、北国街道の伝馬宿であり、善光寺参詣者の旅籠屋(はたごや)をもつ善光寺大門町から、伝馬宿への障害を理由に嘉永元年(一八四八)から翌二年にかけて提訴される。それによると、「権堂村では近年とりわけ家数・人数が増え、揚屋、料理屋、食物屋その他の商店が多くできた。殊に売女屋は農業はせず、家ごとに家号を印したのれん、大行灯(おおあんどん)をかけ、売女の衣服、髪のものにいたるまで身分不相応な上品を使い、万事奢侈(しゃし)でもってのほかである。地震後の権堂村はかえって繁盛し、家作などは地震の前より美しく作りたて、料理人、芸者などまで抱え、以前にまして大きく売女屋・揚屋渡世をしている。なかには最近他所から移ってきて、新規開業したものもあり、商売を広げる計画で諸方へ売女募集に出かけているようである」とし、水茶屋廃業を命じてほしいと幕府に駆訴(かけそ)(駆け込み訴え)した(『権堂町史』)。
いっぽう、松代藩預かりの権堂村は、松代藩を動かして領主善光寺の出府許可を阻止しようとし、松代藩役人が善光寺領に踏みこみ、各町惣代(そうだい)を召し捕り、善光寺はこれに猛反発するという事態に発展した。このなかで、善光寺は町人惣代の出訴を許可する(『県史』⑦一二五五)。嘉永三年六月、善光寺町は領主善光寺の添簡(そえかん)を得て正式に寺社奉行へ出訴した。「旅籠屋ならびに小前惣代」として大門町町年寄二人が訴訟人となり、権堂村の「百姓にて売女渡世」の三四人を訴えた。「売女屋は百姓をまったくやめ、多数の女を抱え、驕奢(きょうしゃ)増長し、旅人を宿泊させ、馬子(まご)・人足を酒色に溺(おぼ)れさせており、当町は衰微して御伝馬御用を勤めかねている。売女屋を廃業させ、もとの百姓にもどしてほしい」とする訴えである。これにたいして権堂村がわも反論した。
けっきょく、権堂村が追手風喜太郎という相撲年寄に扱い人を頼み、大門町惣代へ和解を申しいれた。同年十二月、和解の済口(すみくち)証文を寺社奉行へ提出した。証文はつぎのように定めている。①茶屋は廃業すべきだが、暮らしの立てようがないから当面差し置き、追々本業の百姓にもどる。②給仕女は減らしていく。③旅人・商人・参詣人などすべて、権堂村には決して宿泊させない。④善光寺町のものには、たとえ給仕女を望まれても決して遊興させない。⑤善光寺町に止宿する旅人・商人・参詣人が逗留(とうりゅう)中に権堂村へ出向いて酒食するのはかまわない。⑥権堂村で農間稼ぎに揚酒・水茶屋ができるのは、善光寺町があってこそなので、宿駅助成として年々金三〇両ずつを出金する(『県史』⑦一二五五)。この証文の下書きには、③の条に「ただし、善光寺町の者でも、茶屋でその顔を知らず、当人も他郷の者だと称して遊ぶ分は仕方がない」という一条がついていた。この文言はすりあわせの途中で削除されたが、この済口証文もあまり実効性はなく、このあとも水茶屋の営業はつづいた。
水茶屋の増加は、そこを利用する者の増加を意味した。松代藩では文化六年(一八〇九)四月、若者の飯盛女遊狂の規制触れを出し、村々に命じて五人組ごとに親は連判、若者は爪印(つめいん)の請書を出させた(古川貞雄『村の遊び日』)。また、関屋村(松代町豊栄)の天保五年(一八三四)の「条々」では、買女遊びにたびたび出かけ、無益な金銭を使う者は早速申し立て、村内の難渋者への囲い穀の助力にせよと取り決めている(同前書)。弘化四年十一月、松代領の北高田村(古牧)ほか二八ヵ村の若者七五人が、権堂村の水茶屋や下戸倉宿・坂木宿などの旅籠屋へ出かけ遊興した不行跡を罰せられ、過料銭を取られた。松代藩では水茶屋の存在を黙認するいっぽうで、領民の水茶屋通いについては取り締まりをおこなった。