文政十年(一八二七)刊の『諸国道中商人鑑(しょこくどうちゅうあきうどかがみ)』には、権堂町の水茶屋として山城(やましろ)屋・中嶋屋兵左衛門・ふぢや祐三郎・白木屋惣兵衛など一二軒が広告を載せている・このうち八軒は絵入り、一ページ大の大広告で、描かれている建物は総二階、瓦葺(かわらぶ)き、畳敷きという、善光寺町では当時まだ少なかった豪勢なものである。図4に掲載されているきの国屋は、同書につぎのような広告を載せている。「善光寺権堂町東側中程、水茶屋きの国屋卯八、私座敷より遠山御見晴し」。往来に面した表口には提灯(ちょうちん)を下げた女と男が旅人を相手に客引きをしている(図4)。店の前を流れる七ッ釜用水には橋がかけられ、建物は二階建てで屋根は瓦葺き。周りは板塀で囲まれている。座敷は畳が敷かれているようで、多くの宿泊者と遊女らしい人影が見える。軒先には大きな提灯が一間に二つも掛けられている。嘉永三年(一八五〇)六月現在、店を切り盛りしていたのは卯八の後家きぬで、遊女は六人であった(『市誌』⑬二二四)。
天保八年(一八三七)権堂村良助は、同年二月から翌年二月までの一年間、つぎのような規模の借家を金一一両で借りている(『県史』⑦一四三六)。建屋表間口六間・奥行三間、二階付き。土蔵二間三尺・三間、二階付き。下屋三間・三間。小座敷二間・三間、二階付き。湯殿六尺・九尺。物置九尺・六間。〆(しめ)六ヵ所いずれも造作付き。請状(うけじょう)には月割りにした家賃の滞納はしない。勝手に店を造りかえない。勧進(かんじん)・博打(ばくち)・賭(かけ)の勝負・不行跡・浪人の宿泊禁止。格別下値の物の買い取りはしない。質物(しちもつ)の取り次ぎはしない、などが定められている。
嘉永三年六月の「権堂村売女屋・揚屋抱女名前書」は、この当時権堂村で営業していた水茶屋一軒ごとに、経営者の経歴と抱え女の人数、名前を調べたものである(『市誌』⑬二二四)。これは先にみた嘉永年間の権堂村と大門町との訴訟にあたり、原告である大門町がわがつくったものである。これによると、水茶屋は三五軒、抱え女は一九八人。経営者は善光寺付近や遠くは上州出身の札付きのものが流れこんでいる。たとえば永代屋善十郎は女四人を抱えて営業していたが、その経歴は善光寺領平柴(ひらしば)村(安茂里)庄兵衛といい、一〇年以前に朝日山御用木を盗んだとして所払いとなり権堂村へ引っこみ、近ごろ売女屋をはじめた。また島田屋伊伝次は、上州田島村(群馬県富士見村)の出身で、風俗よろしからずということで取り調べを逃れ、越後へ行き、その後権堂村へきて八、九年以前から売女屋をはじめた。抱え女は九人である。このほか、ある御家中の町組同心の玉川為助は不埒(ふらち)につき暇(いとま)を申しつけられたが、八年以前から料理茶屋をはじめたとある。島屋七郎次は、近ごろ芸者見番をはじめ、ほかにすし商いをはじめたとある。なかには北高田村名主の倅(せがれ)が養子に入り、宮崎団右衛門として遊女三人を置く例も見られる。
水茶屋は仲間を作って営業していた。善光寺町などほかからの圧力にたいし、自粛規定ともいうべき取り決めをつくり、それを回避しようとしたものである。天保六年(一八三五)七月には、つぎのように定めた。①奉公人の風俗は何事によらず、華麗がましいことはしない。簪(かんざし)は二本に限る。②奉公人が客人に馴(な)れ合って自分の眉毛(まゆげ)などを落としても、主人方でそれを取りあげて客へ掛けあったり、金を請求したりしない。眉毛を剃り落とすというのは、その人の妻となることを意味した。③奉公人が客人へどのような内約束をしておき、破談になろうとも、主人から客へ掛けあったり、金を請求したりしない。④渡世向きについて、世間にたいし不当なことはしない。⑤善光寺町にたいし疎略なことをしない。⑥茶屋渡世になにかあった場合には、かならず行司職をとおして解決する。以上の取り決めに三二人が署名し、茶屋惣代平五郎ほか六人に差しだしている(『長野市史考』)。
弘化五年(嘉永元年、一八四八)正月二日、善光寺大地震の翌年正月、水茶屋仲間は震災後の倹約として以下の条目を取り決めている(『県史』⑦一四四六)。①一村馴れ合い、あるいは仲間不和のことも聞くが、新古の差別をわきまえ、往来の途中で挨拶などを念入りにおこなうようにする。②他所・他村からの勧化(かんげ)、頼母子(たのもし)への出資は断わる。村役人への音物(いんもつ)なども手軽にする。③農業の繁忙期には、たとえ客の望みであっても営業は夜一〇時ごろまでとし、横行の酒遊びは遠慮する。④自村の若者がきても酒食や女子などの差しだしはしない。他村の者でも一夜限りとする。⑤年始、七五三、五節供(ごせっく)祝いの飾りは内飾り・表飾りとも年限中は見合わせる。⑥仲間のなかには御用席へ出向いたときの無礼がある。御百姓への挨拶もふくめてよく注意する。⑦抱え女、子どもによる摘み草については耕地や畦(あぜ)などの踏み荒らしがないよう注意する。子どもの凧揚(たこあ)げも同様である。⑧客の送り迎えは、村定めのとおり、門口でする。⑨三味線については一軒につき一挺に限り、爪弾(つまび)きとし、騒がしいことがないようにする。
さらに、同じ嘉永元年四月には、幕府の風俗取り締まりの方針をうけて、つぎのような規定を定め、この遵守(じゅんしゅ)を村役人に誓っている。ちょうど善光寺大門町から水茶屋廃止を訴えられた時期でもある。①衣食住は質素倹約を守る。②家作などの普請にあたっては格別目立つ造作は決してしない。③鳴り物、三味線などは取り扱わない。④客がきても宿泊は一泊とし、二日以上は留めおかない。⑤諸国から珍しい肴(さかな)や青物などを売る商人がきても、高値では決して買わない。⑥諸道具も高価なものは決して取り扱わない。⑦客に頼まれもしない肴などを出して多分な請求をしない。⑧茶屋から子どもをもらいうけ、その子どもに不埒(ふらち)な客などをとらせない。⑨村方茶屋・煮茶屋でよんどころないできごとがおこった場合は、茶屋惣代のさしずにしたがう(『市誌』⑬二二二)。
嘉永元年には煮売り茶屋仲間でも、喜兵衛以下一〇人が連署し、同様の取り決め書をつくっている。茶屋組合の下に煮売り茶屋の組合があることがわかる。これらの取り決めは、たぶんに外部にたいするアピールという性格のもので、条規のとおりに守られていたとは思われない。
天保十五年(一八四四)六月晦日(みそか)、蘭学者高野長英が江戸伝馬町の牢から脱獄し、その人相書きが七月十日付けで信濃へも回ってきた。そこで、各地の目明しに探索が命じられた。このなかに、権堂村の島田屋伊伝次、ふじや(藤屋)勇(祐)三郎の名がある。彼らは先の「権堂村売女屋・揚屋抱え女名前書」にあるとおり、水茶屋の主(あるじ)であった。藤屋祐三郎は上州の出で、身内や子分などに「藤」と名のつく支店(藤沢屋、藤本屋、小藤屋など)を六軒も出させている権堂一のやり手であった。島田屋伊伝治は同じく上州の出で、博徒の親分、国定忠治とも親交があったという。伊伝次は天保十一年の善光寺開帳で大規模な賭場(とば)を開いて稼ごうとして無宿人らを水茶屋に迎え入れたが、松代藩の大規模な手入れをうけ、自らも逮捕されたという前歴がある。しかし、伊伝治は平素「お上御用」に協力的だとしてすぐに釈放されている(山本金太『侠客間(あい)の川又五郎』)。権堂村の顔役としての伊伝治と、松代藩との微妙な間柄がうかがわれる。権堂村組頭兼取締役永井喜三郎の「永井可保日記」によると、村役人は権堂で暴力事件がおこると伊伝治を呼びだし処置させている。このように、水茶屋の主には、二足、三足のわらじをはくものがおり、表の世界と裏の世界で活躍する実力者であった。