遊女

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茶屋の遊女は、茶屋の私有財産と見なされ、権堂村の宗門帳には記されず、村人扱いにされなかった(『長野市史考』)。このため、権堂村の人口にこれら遊女はふくまれていない。ちなみに、その人口は安永三年(一七七四)の七一五人から天保七年には一二七四人へと増加している。天保二年の数字では、ここに二三八人の遊女が加わることになる。

 水茶屋で働く遊女には先にみたように越後の人が多かった。天保三年(一八三二)三月、越後蒲原(かんばら)郡田中村(新潟県白根市)の出身で一九歳のきくは、親と同道して伊勢参りの道中で親が病を患い、路銀に詰まったため、権堂村の権蔵にたいし水茶屋で奉公したいと願いでて請状を差しだした。この伊勢参りの道中云々(うんぬん)の文言(もんごん)は奉公人請証文の雛型(ひながた)にならったものであろう。ほかに京都御本山参詣といった文言の証文もある。年季は五ヵ年三ヵ月で給金は二一両、給金は娘の親に前渡しされた。この証文には、①もし年季中に妻に望むものがあれば、私どもに届けずとも、貴殿の思いどおりにしてもよい。②もし貴殿の思(おぼ)し召しにあわなければ、いずれへ奉公に出されてもかまわない。③もし逃亡、欠落(かけおち)したら探しだしてつれもどす。見つからない場合には代わりの人を出すか、金を返す。④急死したり、不慮の事故により死亡した場合には、貴殿の檀那寺へ葬ってほしい、と書かれている(『市誌』⑬二〇八)。

 弘化三年(一八四六)、越後新発田(しばた)町(新潟県新発田市)出身の一六歳の娘さだが、権堂村の水茶屋紀之国屋で奉公することになった。そのときの奉公人請証文には、「親子連れで京都参詣に出かけたところ、飯山道で病気になった。旅籠屋に長々逗留したので、諸雑費や薬代がかさんだ。その工面のため娘のさだを奉公させる」とある。これも奉公先が決まってからの口実であろう。さだの年季は五年九ヵ月、給金は六五両二分であった。この給金は先のきくが五年三ヵ月で二一両であるのとくらべるとかなりの高額であり、奉公人にも年齢、容姿などで甲乙があったことがわかる(樋口和雄『信州の江戸社会-村や町の人間模様-』)。

 こうした証文は表向きは奉公と書かれるが実質は身売り証文であった。寛永二十年(一六四三)、安庭(やすにわ)村(信更町)の一四歳の少女きくが、金三分の借用の抵当として一〇年季の質物(しちもつ)として預けられた(『軽井沢町史』歴史編)。年利は一分二朱の割合で、年季明けに元利合計を払うことを約束し、払えない場合は譜代(ふだい)に組み入れても一言の文句も差しはさまないと書かれている。この年田畑永代(でんばたえいたい)売買禁止令が出され、人身売買と田畑の売買は禁止されるが、質入れの形式をとって法の網をくぐるように書かれたものである。近世後期になると、長年季の人身売買的なものは姿を消し、賃金稼ぎの一年季が大部分となる。そうしたなかで、彼女たち遊女奉公人だけは長年季で給金先借りというかたちが残った。ふつうの女子奉公人の給金はこのころ一年で一両前後だったから、遊女の給金は大きい。窮乏した百姓にとっては一時にこれだけの金銭を手にいれるすべはほかにはなかった。

 給金の前貸し金は彼女らの肩にかかってくる。さらに着物、帯、蒲団(ふとん)、簪(かんざし)などの諸経費はすべてが貸し付け金として加算される。当初の年季が明けても借金が残っているため、住み替えといって他所へ転売される例が多かった。天保九年、下戸倉宿(千曲市)の「旅籠屋下女召抱え書上帳」には、生国として水内郡権堂村とする二四歳の下女(遊女)が書かれている(『更級埴科地方誌』③下)。彼女は権堂村からなんらかの理由で下戸倉宿に住み替えされたものと考えられる。

 こうした抱え女の手配は、桂庵(けいあん)とか女衒(ぜげん)と呼ばれる周旋(しゅうせん)業者がおこなった。文久元年(一八六一)、佐久郡追分宿(軽井沢町)脇本陣油屋の手代秀三郎が、越後新潟港(新潟市)へ飯盛女をさがしに出かけたところ、同じ目的でやってきた善光寺からの同業者源八と同宿になった(岩井伝重『軽井沢三宿と食売女』)。彼らは現地の周旋業者をとおして娘を集めた。秀三郎は約一ヵ月かけて娘四人を買い、九泊一〇日で軽井沢までもどってきた。先のきくの奉公人請状には、「当人親」儀左衛門として印が押されているが、この儀左衛門が実の親かどうかも明らかではなく、単なる周旋業者かもしれない。

 権堂村の組頭永井可保の日記には、つぎのような抱え女の逃亡事件がみられる。嘉永元年(一八四八)小藤屋抱え女二人が逃亡したが、茶屋仲間より新潟古町通り三ノ町の目明し小嶋屋六太郎に依頼がいき、越後で取りおさえられた。一人は新潟で給金を返却し、一人は実の親同道で連れもどされ、年季を二年増やされた。安政四年(一八五七)四月、栄屋抱えいよを平林村(古牧)彦八が連れだす。茶屋仲間より彦八へ懸けあい、彦八から女を連れもどし、彦八が栄屋へ八両、女へ一両出し事済みとなった。文久三年(一八六三)二月、永代屋抱え女が二人逃亡、茶屋より松代藩へ訴え、逃亡二日後に藩の同心につかまえられ、手鎖、腰縄で茶屋仲間に引き渡される。元治元年(一八六四)八月、藤本屋抱えりせを吉田村(吉田)弥重治が連れだす。茶屋仲間より懸けあったが返さず、女を幕府領の知人に預ける。仲間は藩に訴え、藩より代官に連絡し、女はつかまえられ仲間に引き渡される。弥重治は詫び状のほか藤本屋へ三〇両、女へ七両出して事済みとなった(上千歳町 永井幸彦蔵)。逃亡は、女だけで逃げるものと、男が連れだすものとがあるが、成功の可能性はほとんどなかった。

 つぎに彼女らの自由への唯一の道でもあった身請けについてみる。天保十三年(一八四二)十月、権堂村水茶屋で奉公していた越後今町(上越市)のみつは、小柴見村(安茂里)の治郎右衛門と長池村の円蔵の世話で後町の吉郎治に嫁いだ。ところが吉郎治に「長々の不埒(ふらち)」があり、離縁することになった。離縁にさいし、みつはひとり娘のかねの養育料一〇両、ほかに衣類や所帯道具五七品いっさいを受けとり、新たな生活を送ることになった。これは一見、離縁という不幸ではあるが、みつにとっては不埒な夫と別れられてかえって幸せを得た事例といえる(樋口和雄同前書)。

 先にみた嘉永三年の「権堂村売女屋・揚屋抱え女名前書」には、遊女が身請けされ、水茶屋の主人の妻になった例が五軒にみられる。遊女一〇人を抱える藤野屋栄三郎は、紀伊屋伊吉抱え女と不義し、藤屋祐三郎の扱いで夫婦になった。柏屋藤次郎は、蛭子(えびす)屋抱え女を年季明けに妻に迎え、一〇年前から茶屋をはじめたとある。藤沢屋弥作は藤屋祐三郎抱えのすのを身請けして夫婦になり、天保年中に茶屋をはじめている。白木屋惣兵衛は、自分の店の白梅を身請けして多分の金を払ったため実家を勘当されたが、白木屋に養子に入り養父の死後店を任され、その後改心して今は田畑を買い入れ、内福(経営がうまくいっていて裕福)とある。このように遊女屋三五軒中六軒の妻は、遊女や芸者などの出身であった。女性の多い遊女屋の切り盛りには、こうした女性が向くということもあったのだろうか。こうして器量良しの遊女はまれではあるが引きたてもあった。

 こんな身請けの例もある。天保十年(一八三九)問御所村の名主伊左衛門は、堺屋平五郎の抱え女菊里を六〇両で身請けし、組頭の小兵衛を親元、百姓代の定右衛門を仲人にして盛大な婚礼をあげた。しかし、この身請けの費用六〇両は伊左衛門が役無尽(やくむじん)だと偽り、村方や他領の入作人などから集めたものだとわかった。村の人びとは金持ち村と世間から嘲笑され、大小百姓一同くやしい思いをしたとして、伊左衛門を訴え、六〇両の返金を要求した(『県史』⑦一四四四)。

 きびしい環境にあった彼女たちは、おのずと信仰心に厚かった。千田村(芹田)の瑠璃光寺(るりこうじ)にある薬師堂は痾瘡堂(あそうどう)とも呼ばれ、本尊薬師如来の霊験は近隣にも知られていた。この境内にある井戸の水は、女性の下(しも)の病に効(き)くとの伝承があり、権堂の遊女がおおぜい井戸の水をもらいにきたという。明治十一年(一八七八)の『善光寺繁盛記』には、毎年十一月二十三日の武井神社の祭祀(さいし)に、産子(うぶこ)の出し物とは別に、芸妓(げいぎ)のみで屋台一台を繰りだした。その新奇は群を抜いており、祭りの三日前から遊女らは稽古をしたという。また、彼女たちは華美な服装をして善光寺に参詣することを楽しみとし、その艶麗(えんれい)な姿は諸人のあこがれの的であったことが記されている。こうした遊女の姿は武井神社に奉納されている御柱(おんばしら)祭の額にも描かれている。御柱を先頭に町内を引きまわされる行列には、権堂村の幡(はた)のもとに、着飾った遊女たちが凜(りん)として描かれている。また、八月九日に観音様の「四万八千日」の縁日で今も賑わう中御所村の観音寺には、芸者らによって奉納された絵馬が伝わる。額には芸者衆四人が琴、三味線や尺八、胡弓(こきゅう)らしいものを奏でる姿が生き生きと描かれている。


写真19 権堂水茶屋の女たちの絵馬 (中御所 観音寺)

 水茶屋営業はたびたびの取り締まりにもかかわらず、その規模を拡大した。明治五年(一八七二)十月の「芸娼妓等年季奉公解放令」では、長野県内で一四九一人が解放された。そのうち権堂村では、約三割にあたる四四三人が、背負わされていた借金とともに解放されている。