中世には中国からの輸入銭が国内で流通していたが、江戸時代になると幕府の鋳造する貨幣が流通するようになる。その量は輸入銭の比ではなく、貨幣を使って必要な物資を購入する生活が徐々に拡大する。また年貢の金納化も進(すす)み、現金を入手する必要性も増加した。ここではまず換金の場である市の変化から貨幣経済の進展をうかがってみよう。市のことは前記したが(本章一節)、要点を再説する。
山中(さんちゅう)(西山)と里郷との結節点に位置し、物資の往来が盛んであった笹平(七二会)では、寛文十年(一六七〇)に十日・二十日・晦日(みそか)が上市、五日・十五日・二十五日が下市という六斎市(ろくさいいち)がひらかれていた。しかし市日の定めがみだりになったと上下両町で紛争となった(『県史』⑦一〇〇二)。これは市の繁盛を背景とした問題であった。また、中世から門前町が形成され、北信濃随一の町として栄えていた善光寺町では、江戸時代初頭より月一二回の十二斎市であった。場所は西町・東町・大門町の辻で、「一東、六西、四・九大門」といわれ、一のつく日三日が東町、六のつく日三日が西町、四と九のつく日六日が大門町の市日となっていた。天和(てんな)二年(一六八二)の市日書上(『県史』⑦一三〇七)によると、西横町・東横町・岩石町で町中残らず市立てをするとしており、東之門町が三分の二、西之門町が半分でつづいている。市は善光寺周辺の他町へ拡大しており、そこでは「在々所々より付け来たり候駄荷物(だにもつ)・歩行荷諸色(かちにしょしき)」(『県史』⑦一三〇八)がにぎやかに売買されていた。
一八世紀になると、善光寺平には木綿・菜種などが広がり、山中では麻が特産化するなど商品作物の生産がしだいに多くなり経済活動の広がりが顕著となる。一つは市の拡大にその動きがみてとれる。六斎市だった笹平は、享保(きょうほう)十七年(一七三二)には月六回を九回に増やすことを願いでて認められ、一・八・十一・二十一・二十八日の五回が上町、五・十五・十八・二十五日の四回が下町と定められ九斎市となった(『県史』⑦一〇一〇)。また、戸部村(川中島町)では享保十二年(一七二七)、薪木(たきぎ)・米穀市の取り立て願いを出した(『県史』⑦一五五一)。これによると、四〇年以前に火災により市場が焼失し、そのままになっていたが、このたび薪木・米穀市を先年どおり九斎市として立てたい旨願いでている。いったん閉じていた市が再開されたのは、その市を必要とする在での現金流通があったからといえる。もう一つは、交易の場の広がりである。宝暦十四年(一七六四)の小市(こいち)村(安茂里)の市役御免除願いによると、以前には、「冬中などは木綿布を一、二反ずつ善光寺参詣の折りに持参して売りさばくこと」もあったとし、善光寺町の市へ出かけていたが、近年は「善光寺商人が在々へ入りこみ木綿布を買いうけるので市場へ持ちだして売るものはほとんどいない」といっている。在方での木綿布生産が盛んになるにつれ、市へ持ちださなくとも商人が村々に入りこみ木綿布を買い集めていることがわかる。木綿・布仲間が、尺幅(しゃくはば)不ぞろいを問題にする(『県史』⑦一〇一九)のもこうした背景があった。
一九世紀になると、在方の商いが活発となり市がおびやかされるほどになった。天保五年(一八三四)の善光寺町では周辺の村と市をめぐって紛争に発展した(本章二節三項参照)。また翌天保六年、大門町は、「小商いのものが市日に村々へ商いに出かけるものが多く、市立て人が集まらない。そのため筵見世(むしろみせ)を家の前に出しているものがあり本見世の迷惑となっている。大門町でも市日に町中央に筵見世を出して商いをしたい」と願いでている(『県史』⑦一三二九)。市でなくとも日用品が入手できるほど多くの小商いや諸職が在方に展開していたことを、これらの紛争の背景にみることができよう(この時期の在方での商いは、本章二節三項、『市誌』③五章四節を参照)。