では、いつ庶民は現金を必要としたのだろうか。松代藩では、一八世紀半ばに金納分の年貢・小役について月割り上納制という収納法を採用した。これは恩田木工(もく)の宝暦改革の一環として宝暦八年(一七五八)から定着した年貢金の上納仕法である。四月から十一月までの八回に分けて年貢金を納入する制度で、主たる産物である米が収穫・換金できる十月以前から現金が必要となる仕組みである。つまり年貢金を先納していくために、四月から現金が必要となった。そのため村々では商品作物やそれとつながる加工業などで、米による収入がない時期でも現金を手に入れていたのである。これを具体的な作物などでみてみよう。
この当時、藩によって「金納第一」の商品作物と認識されていたのは、里郷では木綿、山中では麻であった。これらの産物は藩でも出来方に細心の注意を払い、必要とあれば年貢金の取り延べや減免をするなど、領内の金融に気を配っていた。そのほか換金作物として里郷では菜種・桑、作物ではないが養蚕、山中では楮(こうぞ)・漆(うるし)などがあり、山・里両方にかかわるものとして煙草・大豆・小豆などがあった(古川貞雄「松代藩月割上納制と商品作物」)。
これらの収穫から換金できる時期を示したのが表8である。換金作物として一番重要な米は十・十一・十二月に売り払われ十月・十一月の上納を支えた。一月から四月は換金作物はないが、冬季間の出稼ぎや農間余業などで収入を得る。これによって四月の上納をまかなったのであろう。五月に入ると、養蚕による収入が加わる。養蚕は春蚕(はるご)が主流ではあるが、時期がくだると夏蚕(なつご)の生産もおこなわれるようになり、より換金時期が延びることとなる。六月には里郷では菜種の収穫が始まる。七月には煙草や山中での麻が換金される。八・九月には里での木綿が収穫時期を迎える。ほかに麻・楮・漆・煙草・大豆・小豆など多くの換金作物が出まわる。このうち、大豆・小豆を田野口村(信更町)柳沢家の天保五年(一八三四)の例でみてみると、十一月十一日から十二月二十八日まで大豆二四石五斗、小豆七俵をおもに新町村(信州新町)から買い入れ、十一月十三日から十二月二十八日にかけて大豆六石、小豆一石八斗を矢代村・稲荷山村(千曲市)のものに売り払っている(信更町 柳沢博重蔵)。収穫時期と換金時期に差があるが、秋の農作業が一段落してから換金しているのであろう。
これらの作物の生産が増えるにつれ、木綿には木綿布織りや綿打ちが、菜種には絞油業が、養蚕には糸挽(ひ)きや蚕種製造が、楮には紙漉(かみすき)がというように加工業が付随して発展し現金収入の道も多くなる。
また、山中の現金収入の道として代(しろ)かき馬も見落とせない。春の農繁期を迎えると、山中村々から代かきのために馬を連れた人びとが里郷の村々へやってきた。江戸時代、里郷では牛馬の飼育が少なかった(文政十三年で里郷九七一匹にたいし山中二三三二匹(災害史料⑭)であった)ことや、里郷の水田裏作に麦をつくる二毛作が普及して、麦を刈ったあとのごく短い期間に田起こしから代かき・田植えと集中して作業をおこなわなければならない事情が背景にあった。寛政七年(一七九五)塩崎村(篠ノ井)では、田麦をつくっているため一日でも田への水引きを遅らせて麦の実入りを多くしたいとの思いが、稲の作付けに支障をもたらしているとして、今後稲の作付けに障らないよう出精(しゅっせい)する旨の一札を領主に差しだしている(『赤澤家文書』長野市博寄託)。これも裏作麦の影響の一例である。麦を裏作とする二毛作は、一八世紀中ごろから普及しており、里郷での代かき馬利用もそのころ以降始まったものとみられる。この山中の馬は松本領の安曇郡大町村(大町市)・松川村(北安曇郡松川村)方面にも三月下旬ころから四月上旬ころまで出かけており、その数およそ七〇〇~八〇〇匹であった(災害史料⑪)。里郷の田植えは半夏生(はんげしょう)(雑節の一つで夏至(げし)から一一日目をいう)ころであるため、田植えの早い安曇方面へ出かけその後自分の田を仕付け、さらに里郷へと出かけたのであろう。その数は安曇方面より多く一〇〇〇を超える数であったことはまちがいない。山中としては重要な収入源であった。
このように一八世紀後半以降、年貢先納制である月割り上納が抵抗なくおこなわれる背景には、多様な作物の生産とそれらの加工業および各種の稼ぎにより、各月とも現金が入手できるような経済構造があったのである。