一年の消費生活

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貨幣経済の浸透によって、銭を必要とする生活になった村ではどのような消費活動がおこなわれたのだろうか。ここでは松代領東福寺村(篠ノ井)小林弥野右衛門(やのえもん)が記した天保八年(一八三七)の「金銀出入日記万覚(よろずおぼえ)帳」(『小林昭太文書』長野市博寄託)から、どのような物が購入されていたのかをみてみよう。

 東福寺村は、天保期の村高二〇〇〇石を超える大きな村で、上(かみ)・中(なか)・下(しも)組に分かれていた。小林家はこのうち下組に属し、組の役人を勤め村の名主にもなる、持高三〇~四〇石クラスの村内上層の百姓であった。

 まず全体像を、表9でみると、一年間の出金は三三〇件で、金一九七両一分三朱、銀二一八匁(もんめ)七分(ふん)一厘(りん)、銭三二貫一二八文であった。入金は一五六件で、金一三八両三分、銀九六匁一分三厘、銭六貫六五六文である。月別にみると十二月が他の月を圧倒する。支出では十二月は件数で年間の約三分の一、金で半分近くを占める。「盆暮れ勘定」といわれるが、暮れ勘定が中心であった。他の月では、二・三・四月が多いが、二・三月は貸し金の額が多く(表10)、とくに三月には北小森(篠ノ井東福寺)伴右衛門に一二両を貸すなどにより総額が大きくなっている。それらを除くと他の月とほぼ同じといえる。四月は貸し金を除いても多く、まとまった買い物をしている。七月は盆勘定の月で、件数が比較的多い。では、月を追って具体的にみてみよう。


表9 天保8年(1837)東福寺村小林家月別出入金額


表10 天保8年(1837)東福寺村小林家月別貸し金

 正月はお寺やお堂への年始から始まる。松代蓮乗寺(れんじょうじ)に一〇〇文、地元の十王堂・観音堂・専精寺(せんしょうじ)へ二四文などである。二十九日から物資購入がみられ、茶一斤(きん)、引き手・唐紙(からかみ)、下駄一足(七二文)などを購入している。二月は物資購入はなく、他人への貸し金が多くみられる。三月八日には善光寺町で茶籠(ちゃかご)三つ、油刺し拵(こしら)え代、かんてら一つ、塩一俵などに、合わせて金一分二朱と六九四文を支出している。四月三日には油一本、十五日には縮緬(ちりめん)五尺、砥石(といし)、鰯(いわし)二〇、傘四本、膳箱(ぜんばこ)二つなどの買い物をし、金一分、銀一分三厘、銭一貫三五六文を使っている。五月には二日にひらめ一枚、元結(もとゆ)い油を買い、同じ二日に鍬(くわ)の先がけに二七二文を支払っている。十二日には上田縞(じま)、茶碗一〇個を、二十八日には酒を買っている。

 六月には四日に田植え肴(ざかな)に六七二文、七日に田植え日雇い代に二二四文を支出している。二十六日には越中(えっちゅう)(富山県)の薬屋に二五〇文の支払いをしている。七月朔日には安房小湊(あわこみなと)村(千葉県天津小湊町)の旅商い人喜兵衛より合羽(かっぱ)一つと本二冊を一朱で買い入れた。七日に盛福院の大施餓鬼(おおせがき)があり金二分を出した。九日には六月とは別の越中の薬屋がきて金二朱と二〇〇文を支払った。一〇日には桟留(さんとめ)・二尺五寸の杭(くい)・どんぶり椀・肴ぶし・切り昆布など、二十八日には鯖(さば)一本を購入した。

 八月に入ると、三日に善光寺西町留吉へ炭代として金二朱を、大門の塩屋長吉へ金一分を預けおき、大門たばこ屋で九つ切蚊帳(かや)を金二分二朱と二〇〇文で買った。さらに後町嶋屋から火入れ二つを三二四文で、そのほか同店から皿・お猪口(ちょこ)・茶碗・御手塩皿(おてしおざら)など金一両三分一朱の買い物をした。十二日には法事があり、揚げ豆腐・茸(きのこ)・れんこん・松茸(まつたけ)など料理材料や蝋燭(ろうそく)・油などに九八〇文を支出している。そのほか八月には真綿・ふのり・酒札(さけふだ)・釘などを購入している。九月は二日に馬喰(ばくろう)町(松代町)で肴、酒四合、下布施村(川中島町)の肴を購入し代金を立てかえて支払った。そして七日に畳拵え代として金二分を支出。十月はこれといった支出はなく、年貢上納金を支出する。十一月は八日に銭箱を三六四文で、ほかに蝋燭立て、サンマを買っている。十五日には馬喰町吉郎太お七夜祝儀として産着(うぶぎ)代金一分と銀二匁を支出した。十九日には西寺尾村(篠ノ井)からくつ石を二朱で買った。二十七日には松代で煙草(たばこ)二匁に三四八文を支払った。

 十二月は、二日に下横田村(篠ノ井)喜市の娘が縁づいたため餞別(せんべつ)として金二朱と二〇〇文を贈った。三日に善光寺大門町塩屋へ塩代金として金一分二朱と銀一匁七分を預けおいた。そのほか土瓶(どびん)二つ、火箸(ひばし)、さすが(刺刀)、すき返し、砂糖、釘、附け木などを善光寺町で購入した。十日にはねこ(厚手の筵(むしろ))八枚を買い、十五日には下布施村要八に綿打ち賃六〇文を支払った。十六日に油一本購入、十七日には保科村(若穂)の煙草屋に金二分二朱と一二五文を支払う。二十一・二十二日に下肥(しもごえ)代として金二朱を支出。二十三日無尽に金一両三分などを支出し、二十五日には種粕(たねかす)八つ、肴、砂糖、ぶし五本を購入している。二十七日綿実代・二十九日糀(こうじ)代、杵淵(きねぶち)村(篠ノ井)油屋に油代、酒一升、上庭村(篠ノ井東福寺)三平に畳拵え代、鰤(ぶり)片身(二朱)、こんにゃく揚げなど、年越しの用意もすすむ。ほかには暮れ勘定での支払いが多数あった。

 以上が年間をとおしての消費支出の概略である。ここにみられるように、月ごとに変動はあるものの一年をとおして支出しており、銭のない暮らしは少なくとも一九世紀に入ると考えられなくなるのである。

 これら物資の購入先あるいは支払い先で、町村名が記されている場所を図に示したのが、図5である。近隣の村々が多く、自村をふくめて近在でまかなわれていることがうかがわれる。やや遠方としては矢代村(千曲市)、窪寺(くぼでら)村(安茂里)、保科村(若穂)がみられ、また年に三回ほど善光寺町に出かけまとめ買いをしている。


図5 東福寺村小林家の物資購入先

 市域ではないが、千曲川右岸に隣接する福島(ふくじま)村(須坂市)の地主堀内家の嘉永四年(一八五一)の例では、上質品や重要品を買うために城下町の松代・須坂や善光寺町に出向いていた(『長野県の歴史』)。東福寺村小林家の場合、千曲川を渡れば松代城下であるが、城下町での物資の購入は少なく、善光寺町での購入が回数・金額ともに多い。炭代・塩代などを善光寺商人に預け置いていることからして、福島村と同様のことが善光寺町に指摘できるといえよう。