盗難にみる日常の品々

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庶民が日々の生活のなかでどのようなものを所持し、使用していたか、その一端を盗難届をとおしてかいまみてみよう(以下、『赤澤家文書』長野市博寄託)。

 天保七年(一八三六)二月九日夜、塩崎村山崎南組(篠ノ井)の勘左衛門家では盗賊に入られ、男物の木綿羽織・木綿古羽織・単衣物(ひとえもの)、紙入れ、白足袋(たび)三足(うち一足は女物)、男物の紺の指足袋、古股引(ももひき)など八品が盗まれた。紙入れのなかには、鼻紙少々、黒数珠(じゅず)一連、古小刀三挺、矢立(やたて)一挺が入っていた。

 同年七月五日夜、同村同組の新之丞(しんのじょう)は二三品を盗みとられた。木綿切三つ、手拭(てぬぐい)地四つ、紺縞袷(こんじまあわせ)などの布・衣類のほかに、煙管(きせる)、根付け、絹留め、巾着(きんちゃく)、鼻紙入れ、数珠、財布、矢立、さすが(刺刀)、小刀などの品々であった。このうち巾着には銭五〇文が入っていた。また、さすがには「伊賀守(いがのかみ)」、小刀には「金花山」の銘が入ったものが使われていた。前記勘左衛門の盗難品と似た内容であり、当時の人びとにとって一般的な持ち物であったことがうかがわれる。文政十二年(一八二九)の塩崎村北郷には小間物店を商う者が二人、小商いの者が一三人おり(『市誌』③六四一)、これらの品物の多くも身近で手に入ったとみてよいのではなかろうか。

 また、布・衣類などの商い物も盗人にねらわれていた。天保九年三月塩崎村の六兵衛は、商売物一七品を盗まれた。それを示したのが、表11である。これによると、縮緬(ちりめん)、袷(あわせ)、羽織、半纏(はんてん)、綿入れ、引き解(ひきと)きなどの衣類が多く商われていた。引き解きとは解き明け物ともいい、綿入れの綿を抜いて袷に縫い直したものである。また古物ではあるが、腰の物(刀)も扱っていた。六兵衛が近在に商っていた物が盗まれたのであろう。


表11 天保9年(1838)塩崎村北山崎組六兵衛商い物盗難品一覧

 その他の盗難例から品物をいくつか拾ってみると、布団(ふとん)、紙天井(かみてんじょう)の二畳の釣り蚊帳(かや)(天保七年)や土瓶(どびん)、菓子箱、茶碗(天保十年)、脇差し二腰(万延元年)などがある。また、文久二年(一八六二)、四之宮(塩崎)の杢右衛門(もくえもん)が盗まれた紙入れには、金一朱が入っていた。多くの場合、夜寝ているあいだに盗まれているところから、家具などの大きな物はあらわれてはこないが、日用品の一端が知られる。

 これらの盗難品はどのくらいの価値があったのだろうか。およその金額がわかる田野口村(信更町)の例をみてみよう(信更町 柳沢博重蔵)。安政七年(一八六〇)二月、同村半之丞家では木綿の男物綿入れ一つ(代一貫五〇〇文)、青梅縞(おうめじま)男物袷一つ(代一貫三〇〇文)、木綿布一反(代一貫七〇〇文)、木綿男物合羽(かっぱ)一つ(代一貫二〇〇文)、木綿羽織一つ(代一貫一〇〇文)、木綿小倉男帯一筋(代五〇〇文)、木綿切三尺ほど(代一七〇文)が盗まれた。合計七貫四七〇文となり大きな痛手となったであろう。なお合羽は裏が麻入り天鵞絨(ビロード)と凝(こ)ったつくりの物であった。そのほか、万延二年(一八六一)正月、伴左衛門家では合羽、男物帯、男物足袋の合わせて代二貫九四八文ほどが盗まれた。文久二年(一八六二)正月、勇之助は綿入れ(二つ)、袷、羽織、足袋、餅(もち)、米五升搗(つ)きの六品合わせて代金一両一分・七五六文が盗まれた。

 いずれの場合も盗品には木綿製品が多くみられるが、古着商いなどが広まるなかで、古着は流通に乗りやすく、換金しやすさがあったとみられる。