村における金融の成立

105 ~ 109

近世の村においては、農業が生業の中心とされたが、その様相は近世初期から幕末までに大きく変化した。その最大の要因は、貨幣経済の浸透であった。長野市域において、貨幣経済が大きく広まったのは近世中期以降であることはすでにふれた(『市誌』③五章)。このことによって、村における融通の姿も大きく変化した。まず、近世中期までの融通のようすをみてみよう。

 村における融通は、大きく分けて、村にたいする融通と、個々の百姓にたいする融通とがあった。村全体にたいしては、領主からの拝借金などがおもなものであったが、なかには融通の形をとる事実上の課税もあった。これは中世以前には出挙(すいこ)とよばれた制度と同様のものであった。

 元禄五年(一六九二)、妻科村(妻科)の村役人と百姓らが松代藩にたいして求めた種借りの例をみてみよう(『市誌』⑬二六七)。内容は種籾三四俵を御蔵出しの御本籾から借り、利息は御郡中並みの三割としたうえ、同年秋の年貢初納で本利とも返済するというものであった。

 種借りにいたった理由がくわしくは記されていないため、飢饉(ききん)などの切迫した理由が百姓にあったかどうかは不明である。むしろ領主がわの都合で村にたいして種貸しをおこなったのであろう。松代領では同じような種貸しが正徳三年(一七一三)上山田村(上山田町)でもおこなわれている(県史⑦七八九)。このような種貸しの場合、利息分が領主の収入となるわけである。これらの多くは融通も返済も種籾という現物であった。このような例は松代領以外でも、上田領における宝永三年(一七〇六)の今井村(川中島町)(『県史』⑦一一七五)や善光寺領における享保十四年(一七二九)の箱清水村(『県史』⑦一二六七)にもみられる。このように領主による金融を通じた現物による一種の税(中世以前の出挙に相当する)が長野市域とその周辺でも一八世紀初頭まで広くおこなわれていたことがわかる。これらの利息はいずれも三割で、御郡中並みとかお定めのとおりとされていた。これは当時の長野市域で一般的であった二割台にくらべて割高な利息であった。

 村にたいする融通だけでなく、個々の百姓にたいする融通でも貨幣経済の浸透がそれほどすすんでいないようすがうかがえる。田畑の売買がじっさいには近世中期まで残ったことはすでにふれたが(『市誌』③五章)、田畑ではなく人が担保となる人質や、現金ではなく現物や労働による返済も近世の前期までは少なくなかった。綿内村(若穂)の有力百姓であった堀内家の「貸借帳」(綿内 堀内豊城蔵)をもとに延宝五年(一六七七)から寛保三年(一七四三)にいたる村での融通のようすをみてみよう(表12)。


表12 堀内家における貸付金一覧

 これによれば、元禄年間の終わりころ(一七〇〇ころ)から急速に一年あたりの金貸しの件数・金額が増えていく。そのなかには田畑を担保にするものばかりではなく、売り地や人質の例を多く見いだすことができる。とくに人質で貸し倒れになったものは、人質の死亡にともなうものなどごくわずかの例のみで、土地の質流れにくらべるとはるかに高い返済率であった。人質の場合は質に入れられた奉公人の賃金が利息返済分に相当する(『県史通史』⑤)ことや、肉親への思いが返済への努力につながったものと考えられる。人質にたいする貸し付け額は一~二両が大半で、人質に渡されるのは本人の娘が多く、質にとる期間は三年から四年というのが一般的であった。男子が質にとられることもあったが、こちらは四年から七年とやや期間が長い傾向がみられる。いずれにしろ人質は享保年間(一七一六~三六)となるとしだいに減少し、質物(しちもつ)奉公人へと呼称も変化していく。これらに代わって田畑を質入れし、小作料を籾で取りたてる融資が一般化していく。また、宝永期(一七〇四~一一)ころまでは利息分を刈り干しなどの現物で弁済する例もいくつかみられる。宝永六年(一七〇九)春山村(若穂綿内)の伝九郎が堀内家から金一両二分を手形なしで借りているが、利息はすべて、割木や刈り干しで充当している。このような融通と返済のようすをみる限り、近世前半までは貨幣経済の浸透は善光寺町や松代町、さらには町人と結びついた有力百姓など一部に限られ、長野市域の村々一帯にまでは広まっておらず、融通も、金融というよりは現物経済の傾向が強かったことがうかがえる。そして、享保期が現物経済から貨幣経済への転換期となったことがわかる。

 近世中期以降になると、融通も現物や労働から現金へとかわり、返済も現金または籾へとかわっていく。また、担保も土地が中心となっていく。このあいだに、利息も一八世紀初頭の二割前後から安永期(一七七二~八一)のころには一割五分の利息もみられるようになるなどしだいに減少傾向をたどるが、利息は払えても元金まで返済できないことが多かった。

 近世中期までは、百姓が困窮する理由として年貢の上納差し詰まりが多いことはすでに述べたが(『市誌』③五章)、有力百姓による融通もこれにたいするものが少なくなかった。それだけ年貢が百姓の暮らしを圧迫していたのであった。近世を通じて、百姓の借用証文には金を借りる百姓とともに請人(うけにん)として村役人が連判することが一般的であった。百姓の借用の結果、村共同体の領主にたいする義務であった年貢上納に支障が出ることを防止する意図からであった。しかし、じっさいには、多くの土地が質流れとなり、小作地となっていった。有力百姓への土地の集積はまさに貨幣経済の広まりとともに進行したのである。そして、貨幣経済の進展と金融の成立にともない、長野市域でも地主経営が発展していくことになった。