頼母子(たのもし)・無尽(むじん)とよばれる融通も、近世を通じて盛んにおこなわれた。これは、当座の資金を必要とする者が発起人(ほっきにん)となり、その呼びかけに応じて集まった仲間が出資金(掛け金)を出しあい、毎回、資金が必要な者に順々に融通されるというものである。初会では掛け金の多くを発起人が取り、以後出資者が順次融通をうけ、一巡すると終了(満会)となるのが一般的であった。
長野市域でも、無尽や頼母子は、近世初期から幕末にいたるまで盛んにおこなわれていた。これはまた、出資者の集会をともなったので頼母子講などと「講」をつけてよばれることも多かった。文化四年(一八〇七)の「頼母子講取立帳」(松代町 八田勇蔵)にみられる講では、文化四年の冬を初会として毎年冬と春の二回の講をおこない、文政三年(一八二〇)の冬まで合計二七会で満会となった。初会には一人あたり五〇両を掛け、二六会で合計一三〇〇両を集めている。一人あたりの掛け金額が大きく、有力な商人による講であった。初会の掛け金のうち五〇両を賄い代にあて、二五〇両を二六人に割り返し一〇〇〇両を発起人が受けとっている。その後、毎回当番が一〇〇〇両ずつを受けとり、満会までに発起人に出資者の二六人を加えた二七人に一〇〇〇両ずつと、賄いを除いた部分を割り返して一巡した。割返しの部は、当番金を受けとったものから順に受けとれなくなり、終わりに近い者ほど割返しを多く受けられるようになっていた。文化十二年春の一八番までは毎会の賄い代が五〇両にもおよぶが、これらは宴席の費用にあてられたものであろう。単なる融通だけでなく、講という集まりによる娯楽的側面もあったのである。
右の例の頼母子講のように一人あたりの掛け金が数十両、総額が一〇〇〇両をこえるような大がかりなものがあるいっぽう、一人あたりの出資金が一両にも満たず、総額十数両程度のもの、さらには出資者が一〇〇人以上におよぶものまでその規模はさまざまであった。参加者の多くは近在の村や町から募ったもののようだが、なかには商売上のつながりから江戸の町人まで加わるものもあった。先にあげた綿内村(若穂)の堀内家の「貸借帳」には無尽懸け金の記載もあり、宝永六年(一七〇九)六月二十四日の記事に、江戸牛込(東京都新宿区)在住の加藤一郎右衛門の懸け金を立て替えたという記述がみられる。
頼母子や無尽では、全員が同額を毎会掛けつづけることで、全員が基本的には同額の融通を受けられるというものであるため、なんらかの事情で講の仲間のだれかが出資金を出せなくなったり、途中で休会になったりすると、それ以後の融通が保障されなくなる問題があり、訴訟沙汰(ざた)になることもあった。文政十一年(一八二八)中千田村(芹田)の小兵衛が発起人となった無尽では、講仲間の一人が途中から掛け金を滞(とどこお)らせたため以後の受け取り人が不足分を差し引かれることになった。そこで掛金を滞らせた講仲間の親類に不足分の支払いを求めたが難航したため、中千田村(芹田)の観音寺に救済を求める騒ぎになった(『千田連絡会文書』長野市博寄託)。また、文化十三年(一八一六)善光寺町を中心に、毎年春秋二回の講をおこなう形で始められた大本願上人様御無尽は、文政八年(一八二五)より休会となってしまい無尽金を受けとれない者が一三九人にのぼった。そのうち五七人が世話方の三二人を相手取って訴訟をおこしている(善光寺大本願文書)。
当番金の受けとり法には、くじ引きの当たり金の形で融資するものや、始めから受けとり順が決められるものもあった。そのため、先に資金を受けとったりくじに当たったりした出資者が、以後の出資金を出さなくなるなどの問題もおきやすかった。発起人がわでも、そのような事態にならないよう、さまざまな工夫を加えた仕法が考えられるようになった。文政十二年(一八二九)、中御所村(中御所)の良助が会主となった融通講では、あらかじめ掛け金のうち半分を積み立てて運用することで、取り逃げのリスクの回避をはかっている(金箱 利根川千尋蔵)。
以上さまざまな無尽・頼母子講の例をみてきたが、長野市域における無尽や頼母子は、有力百姓や町人たちが諸営業を営むときの資金融通の目的でおこなったものが多かった。村方においては、有力百姓による多角経営の有力な資金源となっていたのである。