江戸時代にはたびたび飢饉(ききん)や凶作があり、対策のために資金が必要になることも多かった。天保八年(一八三七)野尻(のじり)村(信濃町)では名主以下村役人六人が連判して、柏原宿(同)本陣の六左衛門から窮民手当夫食米(きゅうみんてあてふじきまい)の代金として七五両を年利一割五分で借りいれている(『県史』⑦一四三七)。
飢饉にたいしては、領主もまた救恤(きゅうじゅつ)策をとったが、窮民の救済のためにはかなりの資金が必要となることも多かった。無尽や頼母子のなかには村内の救済資金にあてられるものもあったようであるが、このような目的に特化した融通もあった。村で基金をつくり、低利で貸しだすというものである。近世の後期には各地でおこなわれるようになったもので村金貸し付け制度とよばれる仕法である。長野市域のものとしては、関屋村(松代町豊栄)の郷中繰廻金(ごうちゅうくりまわしきん)の例が知られる。嘉永四年(一八五一)、同村名主は松代藩に郷中繰廻金の明細について調書を差しだしている(『県史』⑦七六三)。それによると、関屋村の郷中繰廻金は天保三年(一八三二)から始まった。また資金の管理は名主がおこなっており、名主の交代のたびに資金が受けつがれている。嘉永四年の時点で資金合計は七七両あまりで、そのうち三七両が貸しだされており、郷中での貸金の利息は一割ないし五分であった。利息についていえば当時の利息が一割二分から一割五分ほどだったことからみてかなり割安であり、借りるがわにはそれだけあとの負担が少なくてすむものであった。