近世後期における金融の広がりは別の面においても見いだすことができる。文政十三年(一八三〇)に栗田村(芹田)の小兵衛が、病身を理由に作間に銭質取り引きをしたいと中之条代官所に願いでている(『県史』⑦一五三七)。小兵衛は持高が一二石ほどで家族は四人であった。当時としては農業だけでも生計をたてられたであろう持高であった。
質屋を営業する場合は、盗品の問題などがあるので、免許規定があり、きびしく統制されていた。許可された者には鑑札が交付された。松代藩の例をみると、慶応三年(一八六七)妻科村(妻科)の甚蔵に交付された質屋免許状(『市誌』⑬三六三)には、①怪しい物があったらすぐに届けでること。②請人がない物はいっさい質に取ってはならないこと。③質入れ期間は五ヵ月を限度とすること。④銭一〇〇文につき一ヵ月の利息は二文取ること。⑤金一分につき一ヵ月の利息は銭二四文取ること。⑥金一〇両以上は、利息は相対(あいたい)しだいであることなど、六ヵ条が記されている。
盗品も多々あったようで、文久二年(一八六二)八月に善光寺町の質屋仲間で盗品の改め状が回覧されている(『県史』⑦一二六二)。これによると、丸蔦(まるつた)の紋の入った浅黄の男縮(ちぢみ)など五品があげられており、質屋にもちこまれる盗品には衣類などが多かったようである。
利息をみると、一般の庶民が多く利用したであろう銭での貸し出しは月二パーセントであり、最長の五ヵ月で一〇パーセントの利息となる。年利にすれば二四パーセントとなり、当時の質地などに比べ、貸すがわに有利な利息となっていた。しかも担保としての質物(しちもつ)を手元に押さえているので、ある程度の資金をもち、許可を得られれば安定した営業が可能だった。右にあげた栗田村の小兵衛の場合も、病身という特殊な事情があったとはいえ、新たに質稼ぎを願いでた動機には、このような背景もあったと考えられよう。近世後期になると、有力な百姓や町人のほかにも金融業への参入が可能になるところまで、貨幣経済が広がりをみせていたのである。幕末の慶応三年には、松代領内で質屋を営んでいたものは五九ヵ村に九〇人存在し(『市誌』⑬三六三)、少なからぬ村で複数人の質営業がおこなわれていたのであった。