江戸時代の正貨

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江戸時代の貨幣といえば小判や銀貨や銭貨である。近世以前は、大量に輸入された中国銭(主に北宋(ほくそう)銭、ほかに南宋銭、明(みん)銭などがある)が用いられていた。戦国時代には長期の通用によって摩耗(まもう)して割れ・欠けがひどくなった銭貨や私鋳銭(しちゅうせん)が混在し、悪質な銭貨を排除する撰銭(えりぜに)行為が盛んとなった。室町幕府や戦国大名はしばしば撰銭を禁止したり良銭と鐚銭(びたせん)の混合割合を定めた撰銭令を発布し、銭貨を円滑に流通させようとしたが、撰銭行為は容易になくならなかった。市場は混乱し庶民は銭貨をきらい、銭貨のかわりに米や金銀貨を用いるようになっていた。

 また、戦国大名による商業振興策や城下町建設を背景に大名領国の商工業が発達し、貨幣の需要が増大したため、各地で独自の金銀貨がつくられていった。慶長九年(一六〇四)五月、松平忠輝領の松代にいた大久保長安の配下の山村良勝(たかかつ)が、千村三郎兵衛にあて木曽に送る川中島の銀子の品目を示している(『信史』⑲五七九頁)。それによると銀六一八匁二分(ふん)九厘(りん)のうち五六匁二分九厘は「松城はかりや判」のあるもので、残りは「はいふき(灰吹き)」、「丁(ちょう)かね(丁銀)」、「こま銀(こまかね)」であると記される。松代城下でも慶長年間には銀を吹き立てる「はかりや」という商工業者がいたことがわかる。また「こまかね」は灰吹(はいふき)銀で極印(ごくいん)のない小額の銀貨であり、銭貨の代わりに小額の取り引きに用いられていたものである。このように松代城下でも江戸幕府が貨幣を統一する以前に独自貨幣による経済が存在したのである。

 江戸幕府は慶長六年(一六〇一)慶長金銀貨を発行し、地域市場の独自貨幣を統一した。しかし銅貨(銭)はすぐに統一されず、しばらく永楽通宝や鐚銭など渡来銭の流通を認めていた。幕府は慶長十三年に永楽通宝一貫文を鐚銭四貫文にあて、かつ永楽通宝の通用を禁止し、寛永十三年(一六三六)に寛永通宝を鋳造・発行することによってようやく銭貨を統一した。さらに寛文八年(一六六八)以降、寛永通宝の新銭が大量に鋳造され全国に出まわったことで、寛永通宝は全国通貨として定着した。

 金・銀・銅の三種類の性格の異なった貨幣からなる貨幣制度は三貨制度ともよばれている。金貨は小判一枚の一両を基準とし、それ以下を四進法であらわす計数(定量)貨幣、銀貨は重さがそのまま貨幣としての価値である秤量(しょうりょう)貨幣、銅貨(銭)は一個が一文である計数貨幣というように、三種類の貨幣がそれぞれ別個の体系をもっていて、単位の名称も異なっていた。幕府は相互の交換は公定の換算比率によることとし、慶長十四年(一六〇九)金一両は銀五〇匁、金一両は銭四貫文と公定した。しかしじっさいの交換は各地における時価相場によっておこなわれていた。

 価値をあらわす単位として銭貨の「文(もん)」は全国的に使用されたが、金貨や銀貨には地域により使いわけがあった。高額の品物は江戸および江戸以北の太平洋岸地域では金貨建て(金遣い)で、大坂・京都をはじめ畿内(きない)・西国(さいごく)、および北陸地方では銀貨建て(銀遣い)で表示されるのがふつうであった。これは関東では金貨しか使われないとか、銀貨の使用が禁止されていたということではなく、流通の中心が金貨であり銀貨であったということをさしている。

 江戸時代をとおして幕府は金融政策として、あるいは財政事情の悪化や貨幣素材の不足に対処するなどを目的として、ひんぱんに貨幣改鋳をおこなった。最初の改鋳は五代将軍綱吉の元禄八年(一六九五)である。悪化の一途をたどる幕府財政を救済するため勘定吟味役の荻原重秀(おぎわらしげひで)が献策し、出目(でめ)(改鋳益金)の吸収を意図する金貨・銀貨の改悪鋳策によって元禄小判・一分金・丁銀・豆板銀を鋳造した。この元禄の改鋳による貨幣の増加から物価が高騰したため、これを批判した新井白石(はくせき)は、六代将軍家宣(いえのぶ)・七代将軍家継(いえつぐ)のもとで貨幣を慶長金銀と同品位の質の高いものに改め、貨幣量を減少させた(正徳・享保の改鋳)。このため貨幣流通量が大きく減少し経済活動が停滞し、物価が下落した。とくに米価の下落はいちじるしく、武士や百姓に影響をあたえた。八代将軍徳川吉宗(よしむね)は米価下落を防ぐため、元文(げんぶん)元年(一七三六)に貨幣の供給量をふやす目的で金銀貨の品位を落とした(元文の改鋳)。これによって米価が回復して、経済情勢も好転した。元文の金銀貨幣は長きにわたり安定的に流通した。

 一八世紀後半には、村々への貨幣経済の浸透によって小額貨幣の需要が増大した。幕府は鉄銭を鋳造するとともに、明和九年(一七七二)に「明和南鐐(なんりょう)二朱銀」を計数貨幣として発行した。この銀貨は秤量貨幣にくらべて取り扱いが便利なことから広く流通するようになり、一九世紀初頭には銀貨流通量の六割に達した。こうして銀貨は金貨の補助貨幣となり、三貨制度が崩れ金貨と銭による二貨制度となった。

 一九世紀に入ると、飢饉の連続や国防費の増大などから幕府財政が極度に逼迫(ひっぱく)したため、出目の取得を目的として文政年間(一八一八~三〇)と天保年間(一八三〇~四四)に悪貨が鋳造された。また安政六年(一八五九)の開港直後、大量の金貨が海外へ流出した。これは国内の銀にたいする金の価格が海外よりもいちじるしく割安であったにもかかわらず、日本の金銀と海外の金銀を同重量で交換するという開港条約を諸外国と結んだためである。幕府は金貨流出に対処するため、天保・安政小判の銀貨にたいする価値を引きあげる応急策をおこない、さらに万延(まんえん)元年(一八六〇)には一両あたりの金量を約三分の一に引き下げた万延金貨を発行した。これにより国内の金銀比価はほぼ海外並みとなり、しばらく金貨の流出が止まった。

 江戸時代には都合約八回の貨幣改鋳がおこなわれた。江戸時代後期から幕末にかけて、相つぐ改鋳で質の低い貨幣が鋳造され、いっぽう諸藩では藩財政補填(ほてん)のため藩札の乱発や貨幣の増鋳に走ったため、貨幣流通量は急激に膨張していった。