江戸時代には金貨・銀貨・銭貨のほかに紙幣もあった。紙幣のはじまりは伊勢国(三重県)の山田羽書(はがき)とされている。畿内諸国の豪商たちによる私札が幕府の貨幣制度が整うにつれ下火になったが、そのあと藩札があらわれた。藩札は各藩が独自に発行し領内限りで通用したもので、寛永七年(一六三〇)発行の備前(びぜん)国(岡山県)福山藩がはじめであるとされている。幕府は宝永四年(一七〇七)に幕府貨幣の流通促進をはかって札遣いの禁止令を出した。しかし享保十五年(一七三〇)に藩札解禁令を出し、藩札発行の先例がある藩に限り藩札発行を許した。紙幣の基本的仕法が提示された。しかし、その後新規に発行した藩も多く、幕府もこれを許している。なお、紙幣の呼称は発行する主体となる組織・人により藩札・町村札・宿場札・私札とよばれた。江戸時代当時は藩札とはいわず、「札」「国札」「銭札」「金札」などとよんでおり、明治初年には「楮幣(ちょへい)」「銭幣」などとよばれた。ここでは便宜的に藩札とした。
信濃国では宝永年間や享保年間に飯田藩の藩札発行の事例があるが、松代藩は発行していなかった。松代藩の藩札について記した史料は「御条目 文久三年」(『松代真田家文書』国立史料館蔵)が最初である。文久三年(一八六三)四月二日のところに、「小銭払底(ふってい)につき御領内在・町のものども難渋いたし候趣相聞え候につき、当三月限り銭札通用の儀、去る十二月中相達し置き候ところ、今もって小銭払底の趣相聞え候あいだ、なおまた来る子三月までこれまでの通り銭札通用いたさせ候あいだ、差し支えなく通用いたすべく候、もっともこれまでの銭札の儀は通用停止、新規銭札をもって引き替えいたさせ候あいだ、その旨相心得候よう、右の趣御家中へ演説あるべく候」とある。小銭払底のため、文久三年三月までを通用期限として銭札を発行したが、今もって払底のため来年三月まで通用の新規銭札を発行するとしている。この史料から、松代藩では文久二年から藩札仕法がはじめられ、小額の銭札が通用していたことがわかる。文久二年十二月に御領内在・町の住民が小銭払底による難渋におちいっていたため、文久三年三月限り通用の銭札を発行したものである。小銭払底の難渋がつづいていたため、さらに文久三年四月に一年間通用の銭札を発行した。
前出の史料にある文久三年四月再度発行の銭札が現存する。現在のところ四八文、三二文、二四文、一二文の四券種が確認されている(写真21・22・23・24)。表面には額面のほかに「文久三癸亥(みずのとい)四月」の発行年月、発行元をさす「松代掛屋所(かけやところ)」という楕円の印、「融通」と刻印された朱印、刻んだ文字が不明だが割印がほどこされる。裏面には「午ノ八」「ヨノ九」「エノ二」「子ノ二」という通し番号がある。四八文は上部右肩、三八文は上部左右肩、二四文は上部左右肩、下部左肩、一二文は四隅に切り取りがある。これは額面の違いが端的にわかるように形状を違えたものと思われる。文様など意匠・装飾をいっさい用いない実利的な印刷の紙幣である。四八文や三二文などの端数(はすう)の額面は九六の約数であることから、九六文で一〇〇文に通用させる九六銭(くろくせん)慣行によっている。
この通用期限が近づいた文久四年三月二十五日、藩はつぎの条目を出した(『松代真田家文書』同前蔵)。「かねて相達し置き候銭札通用、当三月限り停止につき、引き替えの儀は追って相達すべき旨申し達し置き候ところ、来月朔日(ついたち)より二十九日までのうち、左の人別のものども方にて引き替えさせ候、その段相心得候よう」とし、伊勢町の岡田庄之助、木町の宮沢彦兵衛、東木町の小嶋孝之助、紺屋町の熊井勇右衛門の名を記している。銭札を期限の三月限りで停止するとする、これは、藩札の廃止令である。銭札と正貨(幕府通貨)との引き替えは四月一日から二十九日までのあいだに、松代城下伊勢町岡田庄之助ら四人のところでおこなうから心得ておくようにと命じている。この四人が札面に記された「松代掛屋所」で、松代藩の藩札は城下商人に請け負わせた藩札であると思われる。文久の藩札発行は小銭払底で領内の町人・百姓が難渋していたために発行したものであった。
藩札仕法が二年足らずで停止となった理由については、先にみた条目にはなにも記されてはいない。しかし、文久年間に藩札を発行していた佐久郡の田野口藩には、文久三年に幕府の御影(みかげ)代官所から藩札を停止せよとの布達があった。近来物価高で領民が難渋している。銭札を使うものもあると実態を記し、江戸から小銭を取り寄せ領民に潤沢にいきわたるようにするので、銭札は今後使用しないようにと指示している。江戸時代後期から幕末にかけ紙幣をみだりに使うことを禁止するなど藩札抑制策をとってきた幕府にとって、無認可の藩札が続出することにたいする恐れを示したものである。松代藩でも田野口藩と同様に幕府の抑制策のもと藩札停止にいたったと考えられる。