善光寺町の町村札

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江戸時代には藩札のほかに、町や村で発行した紙幣(町村札)もあった。長野市域では善光寺町の商人の名が記された紙幣がある(口絵参照)。額面が三二文と二四文の二券種が現存しており、三二文の銭札には「為替手形(かわせてがた)」と書かれ「亥八月限」の引き替え期限がある。三二文には「三枚にて当百(とうびゃく)引き替え相渡し申す可く候」と引き替え条件が記されている。当百とは天保通宝一〇〇文銭のことで、三二文札は三枚、つまり九六文で天保通宝一枚と交換できるとしている。ここにも九六銭慣行がみられる。裏面に引替所として小妻屋長治郎・吉野屋伊右衛門・海老屋(えびや)正右衛門・柳田屋忠兵衛・穀屋茂左衛門・増屋太七・美濃屋久七・三河屋庄左衛門・菱屋(ひしや)伊助、鼠屋磯五郎の一〇人の名前が並べられている。いずれも善光寺町に知られる有力商人の名前である。また「子八月限」と引き換え期限の違うものもある。こちらは額面が四八文、三二文、二四文、一二文の四券種があり、裏の善光寺町商人が増屋太七を一人欠いた九人になっている。通用期限の「亥」は文久三年、「子」は文久四年(元治元年、一八六四)で、それぞれ前年の発行と考えられている。

 善光寺町にはこのほかに「代品物切手」と記された紙幣もある(写真25)。これは先にあげた吉野屋ら商人が引替所になっているものと形式や紙質、文字などが酷似しているものであるが、額面が二四文で引き替え期限にあたる「子五月限」と裏面の引替所の穀屋、三河屋、小川屋など商人一〇人の名前が違っている。これらは小額の銭札と考えられる。


写真25 善光寺町代品物切手
  (9.3×4.1cm) (日本銀行貨幣博物館蔵)

 善光寺町の銭札に様式が類似しているものに、水内郡飯山町(飯山市)の文久三年五月発行の紙幣がある。これは表に「為替」と記され「子正月限」という引き替え期限と「三枚にて当百引き替え相渡し申し候」という引き替え条件があり、裏面に「飯山町預人」として商人八人の名前がある。この紙幣には発行を記した史料がある。それは飯山町町年寄島津金四郎の「文久三年正月御用覚日記」で、そこには「このほど中(ちゅう)、銭札印形出来(しゅったい)候につき、金四郎宅において、自分ども八人の者打ち寄り印形いたし、来月朔日より引き替え致す事にいたし、この旨御月番様に御届け申し上げ候」(『飯山町誌』)とある。有力商人らが発行主体となり、商人の信用で流通させたもので、藩役所に報告し藩に指示を仰いでいるものである。

 善光寺町の銭札の場合、どのような手順で発行にいたったのか記録がないが、飯山町の事例から背後に善光寺役所の指示や認可があり、現金に替えるだけの資力を持った有力商人らが発行主体となり、商人の信用で流通させたものと類推できよう。貧民救済のためと社会不安を押さえるための手段として発行された、藩札の代行のような機能をもった紙幣と考えられる。また、善光寺町の銭札が飯山町のものと体裁が酷似しているのは、近隣地域におけるデザインや流行の伝播(でんぱ)を想定させる。こうしたデザインの相互影響は町村札が盛んに作成、使用された飯田・下伊那地域の紙幣にもみられる。

 幕府は享保十五年(一七三〇)の藩札解禁後、宝暦九年(一七五九)に新規藩札の発行を禁止するなど藩札抑制策をとってきた。しかし諸藩では米札(ふだ)、酒札、産物切手、贈り物札などを名目とした、実質は藩札同然の金札・銭札の発行をおこなうようになる。このような無認可の藩札が続出したことから、幕府の藩札抑制策も実効性がなかったことがわかる。先にみた善光寺町の「代品物切手」という紙幣も、諸藩の例と同じく幕府の藩札抑制策から逃れるために商品札を名目とした紙幣と考えられよう。