寛保(かんぽう)二戌(いぬ)年(一七四二)七月二十七日(太陽暦八月二十七日、以下「太陽暦」を省略する)、畿内(きない)に大雨・洪水を起こした台風は、その後東方へ進み信濃・上野(こうずけ)(群馬県)国境の山岳を中心に七月二十八日(八月二十八日)から八月二日(八月三十一日)にかけて大雨を降らせて、奥州(東北地方)へ抜けたとみられている。
千曲川流域は、七月二十八日夕方から八月二日まで大暴風雨がつづき、本流・支流とも大洪水となった。この洪水は、近世以降の千曲川流域全般にわたる洪水のなかでは最大で被害も大きく、「戌の満水」とよばれる。正徳(しょうとく)五年(一七一五)に天竜川本・支流域で起こった「未(ひつじ)の満水」とならび、信濃で起こった代表的な水害であった。
戌の満水による被害は千曲川流域全般におよぶが、支流域では東部山地から流れる右岸がわの地域に被害が集中している。信濃東部に隣接する武蔵(むさし)(埼玉県・東京都)・上野の降雨と洪水の状況をみると、七月二十七日から大雨が降り、二十八日には荒川・利根川の上流域から中下流域までが満水となっている。満水の状況は、烏(からす)川・碓氷(うすい)川・鏑(かぶら)川・鮎(あゆ)川が利根川に合流する地点から、十数キロメートル下流に位置する上野国新田(にった)郡尾島(おじま)村(群馬県尾島町)青蓮寺の住職須海(順海)の見聞録「寛保洪水記録」(『日本庶民生活史料集成』⑰)によると、「すべて今年の大水は、四、五か国とは申しながら、別して武・上両国(武蔵・上野)は古今未聞(みもん)の大難なり」と記している。秩父山地から平地に押しだした荒川の水流は、北西に押しまわしてから下流へと流れ、「平地の村里すべて一面に渺々(びょうびょう)として海上を見るに似たり」と形容している。また上州では、「烏川・神奈(流)(かんな)川・利根川・荒川一つになりて流れたり。かく方々の川一面になりて流れしかば山里の隔てもなく、水長七、八尺より二丈余まで増し重なり、見渡すところ一遍にして、さながら潮(うしお)の湧くがごとし」であった。信濃・武蔵・上野国境が、大洪水となった状況がうかがわれる。
つぎに長野市域の降雨と洪水・災害の状況を知るために、千曲川上・中流域の状況をみておこう。
千曲川上流域の佐久郡では、七月二十八日(八月二十八日)の午前二時前後から豪雨となり、二十九日は降ったり止んだりとなったものの、夕方からふたたび豪雨となった。翌八月朔日(ついたち)(八月三十日)夕方には大暴風雨となって二日まで降りつづいた。このため山崩れが起こり、千曲川と支流が一時に氾濫(はんらん)して土石・大木を押し流し、堤防が決壊した。家屋・田畑の浸水は、各所に起こった。千曲川左岸の上畑(かみはた)村(南佐久郡八千穂村)は、本流の増水と、堤防を押し破って西方から押しだした大石川の濁流に襲われて家屋が流され、二四八人が溺死した。本間村(同郡小海町)では、八月一日夜から二日にかけて千曲川と支流の本間川が一つとなって氾濫し、三沢川からも水が押しだして被害を大きくした(井出正義「寛保二年千曲川流域の大洪水」)。
中流部上田領の降雨の状況は、七月二十七日の夕方から降りだした雨が二十八日にも降りつづき、八月一日に千曲川が増水した。流域の村々は、家屋の流失、田畑の損毛、流死など大きな被害をうけた。いっぽう支流域では、所沢(しょざわ)川の土石流によって金井村(小県郡東部町)が流亡したほか、田中宿(小県郡東部町)も壊滅的な被害をうけた。
善光寺平(長野盆地)における戌の満水の状況は、松代藩士原正盛の「松代満水の記」につぎのように伝えられている。「頃は寛保二壬戌(みずのえいぬ)年夷則(いそく)(七月)廿八(八月二十八日)烏(う)(日)丑三(うしみ)つの時(午前二時ごろ)に、雨ぞふり出し、廿九日ふりつぶらず、陰々としてうるさきのみなりし。黄昏(たそがれ)に及び、俄(にわ)かにしのをたばねてつくごとく、風さえましいて降りければ、軒の沾滴(せんてき)砂石を流すが程こそあれ、八朔(はっさく)(八月三十日)の戌の刻(午後八時ごろ)より千曲川満水に及びけるに、山々諸々崩るる音百千の雷かと耳目驚かしけるに、水押し出し、沢々にあふれ、高浪打ちて押しける程に、刹那(せつな)のうちに松代へ入り、お城をひたし、士農工商家屋へ水押し入」った。
坂木(坂城町)の狭い谷を貫いて善光寺平に入った千曲川は、北西に向かっていた流路を八幡(やわた)(千曲市)付近で北東へと変え、河床勾配(こうばい)がゆるやかになる。上流で網目状に流れていた流路は、水かさを増して帯のように流れ、牛島(若穂)付近で犀川を合わせる。落合橋から浅川・鳥居川が合流するまでの千曲川は、山地がせまり川幅の狭まる立ヶ花(たてがはな)(中野市)から下流が峡谷となるため、まるで大河の下流部のような景観となる。洪水が起こると立ヶ花上流部は水流が滞留し、自然堤防を乗りこした水は後背湿地(こうはいしっち)に流れこんで湛水(たんすい)する。水量が増して水勢が強いときは、田畑に石・砂が押しこみ、家屋が流失するほか人命が失われる。戌の満水では、千曲川上・中流部から押しよせた濁流と支流の氾濫がかさなって被害を増幅した。