千曲川本流域の洪水と被害

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戌の満水の被害は、上流域から下流域全般におよんだ。各藩の石高損毛高(そんもうだか)は、五〇パーセントをこえ、藩財政を圧迫した。流死者は、全流域で二八〇〇人をこえるといわれ、小諸領・祢津(ねつ)知行所を除くと千曲川本流の洪水によるものが多く、半過岩鼻(はんがいわはな)(上田市)から立ヶ花にいたる中流域に集中している。本流が急激に増水し、川筋からはなれた村々まで激流に襲われた。建物被害は、本流域と支流域で六三〇〇軒をこえている。

 つぎに松代領村々の石高損毛を、被害届からみてみよう(表1)。洪水による田畑の被害は、川沿いの田畑が流亡(るぼう)して耕作ができなくなり永(えい)荒れとなる川欠け、耕作を平常にもどすのに四、五年かかる石砂入り・泥入り、冠水によって根腐れしたり実生(みしょう)が悪いなど農作物が収穫できない一毛(いっけ)損毛に分けられる。なお、山間地では、大雨のさいに傾斜面が多量の水分をふくんで崩れたり、地すべりを誘発して家屋や田畑が埋まる山抜けが起こっている。


表1 千曲川本流域における寛保2年(1742)石高損毛(松代領)

 永荒れ・石砂入りと一毛損毛を合わせた損毛率をみると、獅子ヶ鼻(ししがはな)(千曲市)から下流部の更級郡一三ヵ村は、数値が高い。村別にみると、損毛率五〇パーセント台が小森村(篠ノ井)など三ヵ村、六〇パーセント台が会(あい)村・横田村・杵淵(きねぶち)村(篠ノ井)・小島田(おしまだ)村(更北小島田町)・牧島村(松代町)の五ヵ村、七〇パーセント台が向八幡(むかいやわた)村(千曲市)、御幣川(おんべがわ)村・東福寺村・西寺尾村(篠ノ井)、真島村(更北真島町)五ヵ村であった。

 埴科郡八ヵ村は、損毛率六〇パーセント台が雨宮(あめのみや)村、七〇パーセント台が矢代村、八〇パーセント台が粟佐(あわさ)村(以上千曲市)、九〇パーセント台が清野村・東寺尾村・柴(しば)村(松代町)など五ヵ村で、更級郡よりもさらに大きな被害をうけている。水内郡の四ヵ村は、損毛率六〇パーセント台が中俣(なかまた)村・布野(ふの)村・小島村(柳原)の三ヵ村、七〇パーセント台が里村山村(柳原)で、更級郡の村々同様に被害が大きかった。高井郡は、損毛率八〇パーセント台の川田村(若穂)一ヵ村である。

 本流域に接する二六ヵ村のうち、とりわけ損毛率が高い埴科郡七ヵ村は、千曲川右岸の洪水常襲地域で、損毛のうち一毛損毛率が五〇パーセント以上を占めている。長野市域の清野村・東寺尾村・柴村(松代町)がふくまれるが、氾濫した水が低湿地に数日間湛水し、作物が水面下に没したために生育不良となったり、泥がたまって作物が育たない被害である。左岸村々のなかで一毛損毛率が高い村々は、御幣川村・会村・真島村・中俣村・小島村で、自然堤防内がわの後背湿地を開発した村々である。反面、一毛損毛率が高い村に隣接しているが、二〇~四〇パーセント未満の低い数値を示している村は、横田村・小森村・小島田村・牧島村・川田村・布野村・里村山村など一〇ヵ村である。これら村々は、いずれも千曲川の水あたりが強い場所(水衝部(すいしょうぶ))に位置し、水勢の強い濁流が押しこみ、川欠けによる永荒れと石砂入り田畑を生じた。

 いっぽう、東福寺村・杵淵村・西寺尾村は、犀川の水を農業用水とする上堰(かみせぎ)・中堰・下堰の末流部にあたり、犀川扇状地扇端の低地と千曲川の自然堤防および後背湿地を境域にもつ村であった。そのため戌の満水では、濁流による田畑の川欠け・石砂入りとともに後背湿地の冠水被害も大きかった。

 つぎに、洪水による流死者・建物被害をみてみよう(表2)。


表2 千曲川本流域における寛保2年(1742)流死者・建物被害(松代領)

 獅子ヶ鼻下流部に形成された本流域村々のうち、「松代満水の記」から摘記した三四ヵ村の流死者は、七一三人を数える。各郡とも多くの犠牲者を出しているが、村別にみるとばらつきがあり、二〇人以上の流死者を出した村は一一ヵ村であった。このうち九ヵ村は水あたりの強い水害常襲地で、上徳間(かみとくま)村・内川村(千曲市)二ヵ村だけで一一四人が流死した。けれども二ヵ村に地続きの千本柳村(同)および向八幡村(同)は流死者が三人であった。同様の状況は流域各地で見られ、杵淵村・小島田村二ヵ村は一四一人もの流死者があったが、西寺尾村は一三人である。さらに、通常の洪水では人命の被害が多くない境域にある御幣川村が四六人、岩野村(松代町)が一六〇人の流死者を出した異例と思われる状況も起こった。戌の満水が流域住民の経験をこえた増水をし、激流が村々を襲ったためと考えられる。

 建物の被害は、流れ家・潰れ家・半潰れ家に分けられているが、三四ヵ村合わせて一一三七軒であった。人命被害が村による偏りがあったのと異なり、建物は本流域全般にわたって村の存亡にかかわる大きな被害をうけている。流域の住民は、中州(なかす)・自然堤防など微高地に居をかまえ、川辺の柳など植物の伐採や石の採取など、水防にかかわることがらの規制をするなど、洪水への備えをしていた。明和二年(一七六五)以降は、国役普請(くにやくぶしん)や藩御普請、村々自普請による土堤(どて)・川除(かわよ)けの築造整備が進展するので、建物被害の大小をかならずしも対比はできないが、戌の満水による建物被害の多さは、本流域全般にわたって激しい濁流が襲ったことを示している。

 戌の満水被害状況から、被害が大きかった二、三の地域について、洪水のようすを考えてみよう。

 御幣川村は、千曲川の川筋からはなれた犀川扇状地の扇端に位置し、西部から東部の後背湿地には水田が開発されていた。同村南西の千曲川沿いには自然堤防が形成され、微高地上に塩崎村(篠ノ井)が細長く展開していた。塩崎村は、戌の満水で川除けを押し破られて三〇軒が押し流され、八三人が流死する被害をうけた。塩崎の自然堤防を乗りこした濁流は、本流のようになって後背湿地をやや西寄りに回りこみ、南北に走る北国街道沿いに家々が立ち並んだ御幣川村を西方から襲い、いっきょに五八軒を押し流した。現在、集落の西方に南北に延びる内水除け土堤が残されているが、御幣川村が多くの世帯にわたって四六人が流死した状況からみると、濁流は御幣川村を横断し横田村・会村間の後背湿地を走り抜けて岩野村および小森村方面へ流れたと考えられる。


写真1 戌の満水溺死童子墓
篠ノ井御幣川高土手上、手前地蔵・奥の地蔵の墓石

 流死者が一六〇人、建物流失が一四四軒の被害をうけた岩野村は、千曲川に張りだした笹崎北がわの微高地に村落があり、すぐ背後に薬師山がある。笹崎は、千曲川の水あたり部で水天宮がまつられている。岩野村は、本流が笹崎から反転して会村・小森村・岩野村境へ向かうので、平常の洪水では川欠け・石砂入りなどの被害はあるが、多くの家屋・人命が失われることはなかった。戌の満水の濁流がどのように襲ったかは判然としないが、南方の土口(どぐち)村(千曲市)方面からの水かさを増した本流が、会村・横田村方面からの濁流と合流して山すそを回りこむような形で岩野村を襲ったと推察される。


写真2 寛保2年(1742)川流溺死万霊塔
  (松代町岩野)

 犀川・千曲川にはさまれた真島村は、対岸の牛島村と同じくこれまでも春の雪融け水による犀川の洪水と、夏の梅雨・台風による千曲川の洪水被害をうけていた。戌の満水では一一七人が流死し、建物九九軒が被害をうけた(『長野史料』信濃教育博物館蔵)。江戸前期の犀川末流は、四ッ屋村(川中島町)下流から網の目状に流れ、本流が右岸へ強くあたるため、洪水が起こると青木島村・綱島村(更北青木島町)、川合村・真島村(更北真島町)が被害をうけていた。宝永二年(一七〇五)には真島村梵天浦(ぼんてんうら)堤防が決壊して田畑に浸水した。犀川の河道は現在よりかなり南方にあり、牛島村西方で千曲川と合流していた。戌の満水では、犀川本流が右岸を激しく流れ、千曲川の濁流とかさなって被害を大きくしたと思われる。対岸の牛島村など高井郡五ヵ村は、流死者が六〇人、建物一五四軒が被害をうけるなど右岸流域全般におよんでいる。立ヶ花からの流れが悪くなり、滞留した水が千曲川・犀川合流地域で満水となった情景は、関東で荒川が氾濫して海のようになった状況と同じものといえよう。

 布野村・里村山村は田畑の損毛が大きく、流死者は二五人、建物流失が四〇軒であった。中俣村は流死者が一〇人、建物被害が一三軒、小島村は建物被害が五軒であった(『長野史料』同前蔵)。自然堤防上の長沼村妙笑寺(みょうしょうじ)本堂柱に記された水位が一丈一尺余(約三・三八メートル)であるから、洪水は長沼村西方の後背湿地および浅川下流部の低湿地に浸水し、満水時には微高地の自然堤防と低湿地一面に湛水(たんすい)したと考えられる。赤沼の水位は二丈一尺(六・四メートル)であった。長沼村(長沼)は、死者が一六八人、潰れ家が三〇六軒の大きな被害をうけた。