松代城下と支流域の水害

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松代城下は、八月朔日(ついたち)午後八時ころ満水となった。松代藩士浦野正英が記述した「松代水難記」によれば、松代城は、本丸・二の丸・御殿の床上六尺(一・八二メートル)まで水が上がり、地形(じぎょう)から上一丈余(約三メートル)浸水した。このため藩主は、二日午前一〇時ころ玄関から船に乗って西条(にしじょう)村(松代町)の開善寺へ避難する事態となった。その娘たちは船で松代町内の大林寺へ立ち退いた。

 松代城の被害は、本丸・二の丸・三の丸ならびに居宅は床上三尺が浸水し、ところによっては四、五尺まで泥水が押しこんだ。急に水が押しかけたので防ぎようがなく、城詰(しろつめ)御用米蔵にも泥水が押しこみ使えなくなった。本丸東方の石垣が四間崩れ、南方の桝形(ますがた)石垣もはらみだした。さらに城付きの武具蔵へも砂泥が入り武具が役立たなくなった(『矢沢家文書』真田宝物館蔵)。

 城下の被害は、侍屋敷一一三軒に泥砂が押しこみ大破した。城下町の大小の橋五ヵ所が流され、流れ家が七五軒、潰れ家が一〇六軒、流死者が三九人、流死馬が一五匹(三二匹説もある)であった(前掲文書)。被害を大きくしたのは、城下の東西両縁を流れて千曲川に合流する関屋川・神田川の洪水である。松代城下付近は、七月二十八日から大雨が降りつづき、二十九日の豪雨によって支流が氾濫(はんらん)した。神田川は、竹山町恵明寺(えみょうじ)前を押しきって大川となって紺屋町へ押しこみ、土砂を堆積した。いっぽう、関屋川は、荒町上の薬師堂付近を押しきって、激流が柴(しば)町千体堂(大英寺)前に流れた。柴町は水深が七尺(二・一メートル)となり、土砂が堆積して水流を妨げた。さらに西条村天神堂跡を押しきった神田川は、馬場町・表柴町を流下して神田川の乱流と落ち合い、大川となって城下を流れた。馬喰(ばくろう)町・清須(きよす)町・殿(との)町・肴(さかな)町・廐(うまや)町は、千曲川の湛水と支流の氾濫によって七尺から一丈の浸水となり、逃げ場を失った町人は屋根にまたがって助けを待った(前掲文書)。

 つぎに松代城下周辺村々の被害状況をみてみよう(表3)。埴科郡七ヵ村の石高損毛率は、桑根井(くわねい)村(松代町)が六六・七パーセントのほか、関屋村・平林村(松代町)など六ヵ村は八〇パーセント以上で、本流域同様に被害が大きい。豪雨による山抜け、川欠けによる永荒れのほかは、一毛(いっけ)損毛が五〇パーセント前後を占めている。建物被害は、東条(ひがしじょう)村・牧内村・田中村・加賀井(かがい)村・西条村(松代町)五ヵ村合わせて六九軒である。このうち牧内村は、山抜けが八五ヵ所におよび、潰れ家・半潰れ家となり、東条村は山抜けが二〇ヵ所で、潰れ家一二軒のほか流れ家が一一軒あり、流死者一一人の被害をうけた。豪雨による支流河川の氾濫と、多量の水をふくんだ山地斜面の山崩れ、地すべりが被害を大きくした。


表3 関屋川・神田川流域の寛保2年(1742)石高損毛(松代領)

 高井郡小出村・保科村(若穂)は、保科川の洪水による石高損毛率が七〇パーセント台である。山抜け・川欠け・石砂入りのほか農作物が被害をうけた一毛損毛もある。保科村は、川の氾濫による流死者が七人、流れ家が五一軒、潰れ家が二七軒で、被害は関屋川・神田川流域の村々より大きい。豪雨による山抜けが数ヵ所あり、御用木一七〇〇本を流失している。いっぽう沢山川流域の森村・倉科村・生萱(いきがや)村(千曲市)は、石高損毛率が八三から九三パーセントで一毛損毛が大きく、流れ家・潰れ家が七四軒出るなど大きな被害をうけた。松代領千曲川東部山地沿いでは、かなり広い範囲で豪雨による山抜けや支流の氾濫が起こり、村々が壊滅的な被害をうけた。