戌(いぬ)の満水によって、松代領内全域の村々はまれにみる大きな被害をうけた。松代藩の寛保二年の被害は、水難村数八五ヵ村の石高五万九二五二石余のうち三万九五九五石余で、残高は一万九六五七石余であった。石高損毛率は、水内郡が五六パーセント、更級郡が六二パーセント、埴科郡が八四パーセント、高井郡が六七パーセントで、平均は六七パーセントの高率となっている。藩は、幕府勘定所へ「当秋の大水で水損皆無同前の村方が書面のとおりで、百姓どもが困窮し農業もつづけられないので、当戌年の国役金の上納を来年まで延期していただきたい」と願いを出し、国役金一七〇両余の延納が許可された(『県史』⑦一七二四)。また、幕府から無利子・長年賦返済の拝借金一万両を借りうけて災害復旧および領民の救済をおこなった。
寛保二年冬、幕府の代官大草太郎左衛門・御普請方役人らが流域の災害箇所を見分し、翌年に川除け国役御普請をおこなった。この御普請のあと、横田村など流域一六ヵ村の村役人は、川除けを維持管理する条目を守る一札(いっさつ)を勘定奉行所へ差しだした。その大要は、①御普請所の合掌枠(がっしょうわく)を大切にし、繕い保つようにする。②土堤(どて)・砂利堤(づつみ)の裏表はもちろんのこと、土・砂利を取った場所に、柳あるいはうつぎ・萩などを来春までに植えこみ、水除けにして土堤を保護する。石積みも破損しないよう繕い、前後の場所に柳を植えこむ。③杭柵(くいさく)囲いなどが破損したときは、早々に繕う。④古い枠が破損しないように見回り、くさびなどを打ちかえ、破損の分は村方で繕い、お願いがましいことはしない。⑤堤上の馬踏みは、前々から往還したところは別として、今般御普請をした切所の枠・石積みの上を道にしないよう立札を建て、村中で通行を制限する。今後満水で破損し村方の力がおよばないときは、明細を書きつけて注進する。役継ぎのときはこの条目の写しを後役に申しおくる、と誓約している。一札を差しだした村々は、千曲川左岸の村々が多く、横田・小森・東福寺・西寺尾・杵淵(きねぶち)・小島田・牧島・真島・川合・大豆島・風間・北長池・福島新田(ふくじましんでん)・中俣・布野・村山の諸村である(『松代真田家文書』国立史料館蔵)。
いっぽう、松代藩は、松代城および城下の水害を防ぐため、家老の原八郎五郎が城近くを流れていた千曲川本瀬を付け替える「瀬直し」をおこなった。瀬直しは、小森村・東福寺村境の水あたり部から道島(篠ノ井東福寺)を大きく湾曲して松代城のすぐ西方を流れていた流路を変え、中沢村(篠ノ井東福寺)南西を起点とした堀川を掘削して本瀬とする普請で、延享四年(一七四七)に着手されたという。掘削流路は、川幅が一四間(二五メートル)、長さが三四一間(六一四メートル)の計画がたてられたが、宝暦十二年(一七六二)絵図の川幅は四四間となっている(『千曲川瀬直しにみる村人の暮らし』)。
戌の満水で水除けを押しきられた塩崎村は、寛保二年八月に塩崎陣屋へ救済願いを出し、御救い米を下げ渡された。しかしその後も生活が困窮し、十一月にふたたび救済願いを出した。「塩崎村小百姓・水呑(みずのみ)百姓は、八月満水の節、夫食(ふじき)・農具・衣類を流失し、残った夫食・種物なども泥入りとなって残らず腐って役立たなくなった。そのみぎり御救い米をくだされようやく渡世してきたが、畑作物は皆無となり、田方も少しずつ作ってきたが泥水が押しこんで収穫が少なく、夫食としたり農具を調達して麦作の蒔きいれをしたりすると、もはや夫食がいっさいなくなる。飢えている小百姓が七八人、水呑百姓が二六人、これらの家族が三四三人おり、これからの生活が成りたたなくなる」という切実な願いであった(『赤沢家文書』長野市博寄託)。
塩崎村の村高二八五三石余のうち、前々からの荒れ永引き高は六〇〇石余であった。戌の満水で、高一三〇〇石余が泥入り、高六〇〇石余が砂入りとなり、村高の八七・六パーセントが荒れ地となった。寛保二年十二月、塩崎村は塩崎陣屋へ千曲川通りの普請願いを出した。千曲川沿いの千間淵(せんげんぶち)石枠(長さ八〇間、高さ一丈二尺)、松節(まつぶせ)石枠(長さ二〇間、高さ一丈二尺)が損壊し、千曲川支流の聖沢(ひじりさわ)は、長さ一〇九〇間、横四間、深さ三尺の堀が被害をうけた。塩崎浦の土堤(長さ八六〇間、敷二五間、高さ一丈五尺、馬踏み六間)および篠野井浦の土堤(長さ六七〇間、敷二六間、高さ一丈五尺、馬踏み二間)は、たびたび水が押しこみ難儀しているが、八月の満水ではおびただしい砂が押しこんだ。この砂を堤に築(つ)き立てたいが、百姓の自力におよばないので、御普請を願いたいという趣旨であった(前掲文書)。
戌の満水は、農業生産や生活にさまざまな影響をおよぼした。町川田村(若穂)は、戌の満水から川欠けが増して宝暦三年(一七五三)に地改めがおこなわれ、元高一〇二〇石余のうち四六五石二升余が川欠け・荒れ地高と認められた。しかし宝暦六年には川欠け高が四七六石一斗余になり、北国街道の宿役(しゅくやく)が勤めがたくなったため保科村出作(でさく)分一〇〇石の諸役御免を願いでた(災害史料①)。丹波島村も同様で、戌の満水による川欠けとその後の洪水被害のため、宿役が勤めがたいとして御手充(おてあて)を願いでている。
一村が亡所となる被害をうけた上徳間村(千曲市)は、寛保二年(一七四二)の年貢籾(もみ)高(本年貢とその口籾(くちもみ))が三一四俵四斗余であったが、戌の満水後の年貢籾高は六俵一斗余であった。その後、延享元年(一七四四)が一三俵余、二年が一二俵余、三年が一九俵余で、災害からの立ち直りが容易でなかった実態を示している。上徳間村は、河川敷の中河原芝野の開発をしたところ、安永三年(一七七四)に藩役人から、年々の起き高辻について絵図面・名所(などころ)を書いて提出するよう命じられた。しかし、戌の満水ですべて石砂入りとなって人別高分けも耕地の引き分けもできないので、地押し検地を願いでた。地押し検地は、安永六年におこなわれた(古川貞雄「戌の満水と松代領地押検地」)。
いっぽう、水辺の村々には災害除けの信仰が広まっていた。岩野村西(松代町岩野)の一一軒は、享保十四年(一七二九)正月に伊勢講をつくった。往古から川欠けがあり、元禄年中(一六八八~一七〇四)からは毎年川除け普請をしているが押し流され、享保十三年八月十七日の満水で西村の居屋敷まで欠けこんで住居があぶなくなったので、川除けの祈祷をおこなうこととし、伊勢内宮へ代参をたてることを取り決めたのである。代参は、春が正月二十六日、冬が十一月二十六日とし、冬の講中会合で籖(くじ)びきをして代参を決めてきた。ところが、寛保二年戌の満水から四、五年は代参が中断した。一村が亡所になる災害をこうむり代参どころではなくなったからであろう。村びとは、宝暦年中にふたたび先例にならって代参をたてることを決め、正月二十六日に講中が寄りあう振る舞い講をおこなうことにした。しかし、災害や講中の不幸などを考慮し、白米五合、銭一六文ずつ持ち寄り、質素倹約を守って一汁一菜とするなど、あらためて講中の規則を定めた(清野 上原新蔵)。