寛保(かんぽう)二年(一七四二)戌(いぬ)の満水は、近世最大の洪水であった。千曲川流域は、川沿いの中州・河原に開発した畑はもちろん、自然堤防など微高地の田畑・建物も石砂・泥入りによる被害をうけ、建物や農具・衣類・夫食(ふじき)が流された。千曲川の後背湿地や支流河川下流部の微低地にも石砂・泥が押しこみ、作物が冠水被害をうけた。洪水・水難のありさまを調査・見聞した記録によって、被害状況はかなり詳細に知られている。
戌の満水以前にも千曲川・犀川の大洪水はしばしば起こっていたが、洪水・被害の状況はかならずしも明らかでない。
江戸時代初頭の慶長年間(一五九六~一六一五)には、千曲川・犀川の大洪水が数回起こった。慶長七年(一六〇二)の千曲川大洪水では、黒彦郷(千曲市)が流亡(るぼう)したという。黒彦郷の跡と伝えられる黒彦河原は、網の目状に流れる河道の定まらない流域で、同十三年にも大洪水が起こって河道が遷移した(『戸倉町誌』②)。このあたりで千曲川が網の目状に流れた旧河道は、西部山地と東部山地間の平野部に数筋認められるが、千曲川本流は、八幡村(千曲市)まで流路を北西に向かい、その後武水別(たけみずわけ)神社境内東がわから稲荷山(同)極楽寺跡付近までつづく河岸段丘寄りを北東へと流れたと考えられる。このため寛永十二年(一六三五)の洪水のときは、稲荷山東がわの低地(旧河道)に浸水し、微高地上の極楽寺が危険となった。
長野市南部の塩崎村(篠ノ井)の後背湿地は八幡から稲荷山への旧河道の地続きにあり、洪水にたいしては善光寺平南部の喉元(のどもと)にあたる位置である(図1)。寛永元年(一六二四)に土堤が築かれているが、これは塩崎の自然堤防南端の松節(まつぶせ)地籍近辺ではないかと推定される。現在同地にある堤防遺構は、弘化四年(一八四七)以降に改修されたものと考えられるが、凹地(くぼち)からの浸水を防ぐ地点に築造されている(「千曲川従(より)鼠宿村西寺尾村迄絵図」)。
塩崎村の洪水記録によると、慶安三年(一六五〇)九月の洪水は、平常水位より一丈三尺(約三・九四メートル)の増水で家屋・田畑に浸水被害をおよぼしている。被害状況の記録によると、明暦三年(一六五七)八月、寛文十年(一六七〇)六月の増水は一丈二尺であったがこれは被害が小さいとされ、同十一年七月の増水一丈四尺では「沿岸田圃荒蕪(たんぼこうぶ)、浸水家屋多し」、延宝八年(一六八〇)七月の増水一丈六尺では「沿岸田圃一掃せられ、人家浸水多し」、元禄九年(一六九六)八月の増水も「延宝度に類す」とある(『更級郡誌』)ので、当時は平常水位より一丈二尺をこえると危険な状態になったと考えられる。寛保二年水害後に塩崎村が塩崎陣屋に出した堤防築造目論見(もくろみ)書では、塩崎浦・篠野井浦の二ヵ所とも堤防の高さが一丈五尺となっている。
松平忠輝の松代城代花井吉成(よしなり)が千曲川・犀川・煤鼻(すすばな)川(裾花川)の改修をおこなったと伝えられる慶長年間(一五九六~一六一一)には、犀川流域の開発が盛んにおこなわれた。元上杉謙信の家臣であったという北村門之丞(もんのじょう)は、草原の多かった関崎河原近くの䳄島(ははどりじま)に人を集め、川合新田を開発した。しかし、千曲川・犀川合流地点付近は、慶長十二年(一六〇七)に犀川の大洪水が起こり、流路が大豆島(まめじま)南がわに変わって川合村(更北真島町)が分断されたという災害が起こっていた(『輪中の村牛島区誌』)。䳄島の開発地がどこかは判然としないが、千曲川左岸・犀川右岸の氾濫原(はんらんげん)の微高地(自然堤防)が新田開発地となったと思われる。同十六年には、千曲川・犀川の洪水によって川合新田村の開発地が川欠けとなった。同村は、元和四年(一六一八)に犀川右岸の中島柳に居住地を移動したが、寛永十八年(一六四一)・十九年にも水害をうけた(『市誌』③)。
万治三年(一六六〇)の犀川大洪水では、綱島村(更北青木島町)の高七三石が荒れ地となる被害をうけているので、右岸一帯の村々も水害にあったと思われる。つづいて寛文二年(一六六二)の洪水では、真島村(更北真島町)・川合村が浸水した。元禄九年(一六九六)八月の洪水で綱島村は、高一八〇石余が荒れ地となり、川合新田村は、洪水後に鍛冶沼(かじぬま)に居住地を移動した。鍛冶沼・綱島など煤鼻川が犀川に合流する一帯は、河道が右岸がわへ寄り、洪水のさいは開発された微高地が流路となるおそれが大きかった。同十四年八月の大洪水のさい、綱島村は高三九六石余が荒れ地となった。このとき鍛冶沼村が流亡し、住民が四散したと伝えられる(『更級郡誌』)。正徳四年(一七一四)八月に提出された「新田川合村川欠け跡荒れ野・砂地切り起こし仰せ付け願」(『市誌』⑬二七一)によれば、これ以前に七ヵ村の耕作地、高二四八石三斗八升一合が残らず川欠けとなっていたが、この跡地に荒れ野・砂地が形づくられるたびに開発を進め、申年(宝永元年(一七〇四))までに高六七石余を高請けした。その後また満水によって年々川欠けがあり、近村の小作でしのいできたが、荒れ野・砂地ができしだいに切り起こし、生計を立てたいと願いでている。これまで犀川右岸に居住地があり、洪水被害が多かった川合新田村(芹田)は、享保年間(一七一六~三六)に左岸の現在地に移動した。
犀川末流域右岸の水害はこのあともつづき、宝永二年(一七〇五)には真島村梵天浦(ぼんてんうら)の堤防が決壊し、同村四ッ橋・西蔵王(にしざおう)・北沖・北村前沖など流域内部に浸水した。洪水常襲地の綱島村は、元文四年(一七三九)の洪水で高四五〇石が荒れ地となった。
元禄期から享保期にかけては、千曲川の洪水があいつぎ一三回を数える。元禄七年七月の洪水では、松代領の水難村数は一八二ヵ村にのぼり、その損毛高は二万一八〇〇石であった。同年八月三日にも満水となり、家屋一九軒が流され、二人が水死した。松代城裏の川除けも破損し、八月十七日に木柱九〇〇本を運んで修復した。元禄十五年七月二十六日は大風雨となり、水難村数五三ヵ村、潰れ家五八軒、飯縄(いいずな)宮一ヵ所も潰れた。田畑の損毛高は三四〇〇石余であった(家老日記I)。
享保元年(一七一六)八月につづいて、同二年には佐久・小県・埴科・更級各郡にわたる大洪水が起こった(酉(とり)の満水)。同四年八月にも満水となり、同六年七月、同八年八月にも洪水となった。この洪水で千曲川の水あたり部に設けられた塩崎村松節堤防が決壊した。この堤防は、同十三年にも決壊して国役普請(くにやくぶしん)がおこなわれている。同十四年二月、千曲川ではまれな雪融け洪水があり、聖(ひじり)川の増水で唐猫(からねこ)(篠ノ井)付近の堤防が決壊した。
享保十五年五月に起こった洪水は、松代城に浸水した。松代城下は、寛延元年(一七四八)にも浸水災害が起こるが、九月の豪雨による関屋川・神田川の氾濫による水害であった。享保十六年四月、五月とつづいた洪水のうち五月の洪水は、「亥(い)年の大水害」といわれるが、被害の実態は明らかでない。