戌(いぬ)の満水後、松代藩や塩崎知行所などは、農民の救済・災害復旧を進めた。千曲川沿岸村々の水防もしだいに整備が進められたが、戌の満水により川瀬の変化や土砂堆積が生じたこともあって、江戸後半には洪水がいっそう多発し、災害が増加した。
戌の満水の災害をうけた村々は、その痛手から立ちあがることがむずかしかった。そのうえ、その後も洪水はしばしば起こった。宝暦七年(一七五七)には、五月一日から五日まで大雨が降り、千曲川・犀川が大洪水を起こした。塩崎村(篠ノ井)は一丈五尺の増水で、松節堤防・荒堰堤防・聖川堤防が決壊した。篠野井は人家六〇軒が泥入りとなった。犀川流域は丹波島村・青木島村(更北青木島町)に被害があり、安庭(やすにわ)村(信更町)では山地の崩落が起きた(『更級郡誌』)。松代領内の被害は、総高一一万六四〇三石余のうち、前々永荒れ高三万四三五一石一斗五升五合とあわせ損毛高は五万一二四五石八升五合五勺であった。松代藩は、幕府から一万両を拝借して救難と災害復旧をおこなった(「松代水難記」)。
さらに、同じ宝暦七年の七月二十四日に夜中から降りだした大雨は、翌日まで降りつづいた。夜中に千曲川は「乱瀬」となり、平常水位より二丈四、五尺ほども増水した。犀川は八尺ほどの増水だった。千曲川の洪水は、瀬直し前の旧流路にも奔流し、城地囲い土堤を押しきって城裏へ突きあたり、城内へ浸水し、侍屋敷・城下町の居家(おりや)へも浸水して流れ家・潰れ家が出た。領内四郡の水損は一〇〇ヵ村にのぼり、軽重があるが居家・田畑一円に浸水し石砂が入った。流れ家・潰れ家もあった。この洪水では、千曲川上流が格段の大雨で大洪水となり、家財・農具・俵物(たわらもの)まで流失したり水浸しになった。四郡の谷川も急に出水したので、山抜け・川欠けになり、土堤を押しきって用水堰を押しうめ、押し掘りや道・橋の破損も多く、国役御普請所・仕継(しつぎ)御普請所・自普請所が流失した。寛保の水災以来(いらい)の大洪水となり、数日間湛水(たんすい)したので田畑の作物は用立たなくなった。城内の番所・廐(うまや)など多くの建物が浸水し、家中の居家は床上に泥が入った。城下も表5のような大きな被害をうけた(『矢沢家文書』真田宝物館蔵)。
宝暦七年の大洪水につづいて明和二年(一七六五)にも大洪水が起こった。四月十五日・十六日の大雨で犀川は大満水となり、犀口で取水する中堰・下堰の水門を押し破った。村々から人足が出て、堰筋に沿って流下する濁流をようやく防いだが、場所によっては苗間へ水が押しこんだ。これ以前から犀川流域の犀口(さいぐち)三堰と小山堰は、洪水のたびに取水施設の被害をうけていた。寛延元年(一七四八)の洪水では取水口が大破し、取水施設の損壊だけでなく堰筋に沿って押しこむ濁流・石砂が被害を大きくした。明和二年の洪水では田畑の木綿・麦などが冠水し、四ッ屋村(川中島町)は、水門まで欠けこんで被害が大きかった。丹波島宿は、宿の半分に浸水して町中を船で通行した(『赤沢家文書』長野市博寄託)。
千曲川も、四月十四日夜から十六日にかけての大雨で洪水となり、塩崎村の御普請所土堤が五〇間余押しきられて浸水した。苗間や作物が被害をうけ、家屋一七〇軒余に浸水して夫食(ふじき)も泥が入り、農具が流失した。千曲川に面した畑は、高二〇石余が川欠けとなったほか、山地の谷川でも二三ヵ所が押しきられて畑高五石が石砂入りとなった(前掲文書)。
明和二年の洪水は、宝暦七年と並ぶ大洪水であった。松代城中は、本丸北の石垣が崩れたほか、三ヵ所がはらみだした。二の丸・三の丸の石垣にも崩れやはらみ出しがあり、外堀の一部が土砂入りとなった。城下の侍屋敷は、三軒が欠けこみ、二六軒が半潰れ家・損家となった。寺院一ヵ所が大破したほか、町屋の流失・半潰れ家・損家が一二四軒あった。領内の損毛は、水難一九二ヵ村で高五万三八六五石余が山抜け・石砂入りで永荒れとなり、井堰(いせぎ)も押しうまった。苗間には泥砂が入って苗腐れとなった。領内の御普請所・道・橋が損壊し、流れ家が五五軒、潰れ家・半潰れ家が七二一軒、寺社六ヵ所、流死者二五人の被害をうけた。たびたびの災害を合わせると領内八万石余が損毛となり、藩は幕府に一万両の拝借金願いを出した。
松代藩は、明和三年に千曲川・犀川御普請所の復旧に着手し水防事業を進めた。同四年には四七ヵ村の村高二万二一七二石余が山崩れ・川成り・石河原成りなどで五分(五〇パーセント)以上の荒れ所となったので、国役金の免除を願いでた。しかし、追い討ちをかけるように明和五年五月五日夜に千曲川・犀川および谷川が出水して、城下の侍屋敷・町屋と在方の建物が流れ家・潰れ家・半潰れ家・埋れ家・損家などの被害をうけた(表6)。領内水難一六五ヵ村の山抜け・川欠け・石砂入りによる損毛石高は、本田・新田とも三万八五三六石余であった。井堰は延べ二万一五四間に土砂が押し埋まって、苗間は泥砂で苗腐れが生じた。千曲川・犀川通りの御普請所も損壊し、普請しなければ平常水位でも支障が起こる状態となった(『真田家文書』真田宝物館蔵)。
このような災害をうけた村々からは、見分(けんぶん)願いがあいついだ。松代藩は、同年五月見分出役(しゅつやく)に「今度満水に付き見分次第覚」を申し渡した。内容は、農作物の水損のほか、砂入り・山抜け・川欠けから流木にいたるすべての被害に関するもので、被害の認定や記録など細部にわたって見分心得を説いている(災害史料①)。しかし、被害状況をきびしく査定したものの、損毛は増えるいっぽうであった。
明和九年(安永元年、一七七二)七月十九日の千曲川・犀川満水は、同月十二日から十六日までつづいた降雨と、十八日未明から十九日にかけての暴風雨によるものだった。近年にない大水で、潰れ家・流れ家が六軒、田畑は川欠け・山抜け・石砂入りのほか、数日間の湛水(たんすい)で田の稲は実らず、水難八七ヵ村の損毛高は二万五三五八石余であった(『真田家文書』真田宝物館蔵)。
安永年間(一七七二~八一)には洪水が四回起こり、松代領内の荒れ所が増加した。安永八年八月二十四日から二十六日の洪水は、千曲川が一丈二尺、犀川が一丈余で増水は少なかったが被害が大きく、水難一三七ヵ村の田畑損毛高は三万八八六〇石余にのぼった。城下の侍屋敷・町家および在方の家屋の被害も大きかった。安永九年に国役川除け御普請願いを出した水難四二ヵ村の荒れ所高合計は、二万一〇六八石六斗六升二合にのぼった。村別荒れ所高は表7に示したようで、流域諸村の損毛が増加した。