天明・寛政期の御普請所・用水堰被害

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千曲川・犀川の洪水は、宝暦元年(一七五一)から安永九年(一七八〇)にいたる四〇年間に大小合わせて一四回起こっている。それにつづく天明元年(一七八一)から享和四年(文化元年、一八〇四)までは、二四年間のあいだに洪水が一四回と多発した。なお、この間の天明年間(一七八一~八九)には、旱魃(かんばつ)や多雨低温などの天候不順による凶作がつづき、飢饉(ききん)となった。

 天明元年から寛政十年(一七九八)までの洪水と旱魃や時候不順などによる被害状況を「御損毛高御届」(『真田家文書』真田宝物館蔵)で概観すると、天明二年から一七年間に七回起こったおもな水害の石高損毛平均は、二万六四九八石余である(表8)。これにたいして旱魃など天候不順による七回の平均損毛高は二万五六九五石余で、洪水と天候不順による災害は、ほぼ同じ規模の損毛高であった。しかし、洪水の場合は、旱魃などの天候不順とちがって人命・建物・田畑が直接失われる事態もあり、道路・橋・川除け普請所・用水堰などの復旧にも多額の費用がかかるので、藩財政への圧迫や領民の難渋では旱魃などを上まわる大きな自然災害であった。


表8 天明元年(1781)~寛政10年(1798)松代領石高損毛高

 天明三年は、六月中旬から時候が不順で、諸作物の育ちが悪かった。そのうえ七月中旬に大雨となり、千曲川・犀川をはじめ谷川も増水した。田畑は川欠け・水押し・石砂入りとなり、損毛高が三万一六三〇石となった。松代藩の記録では「作物を打ち倒し」と記しているが、田方の損毛高が畑方の二倍という異常事態となっているのは、時候の不順と重なったからであろう。川沿いの村々では、災害のつど川除け・堤防普請がおこなわれてきたが、洪水による普請所の流失などが多く、浸水による建物被害や道路・橋・用水堰の破損が大きかった。天明六、七年に連続した洪水も同様の傾向を示している(表9)。


表9 天明・寛政・享和期(1781~1803)における松代領のおもな水害

 天明九年(寛政元年、一七八九)五月十七日・十八日の洪水は、千曲川・犀川が増水し、国役御普請所・川除け御普請所を押し流し、各所で川筋が変わり切所ができた。このため、松代領内の流れ家・潰れ家・水入り家が増大した。川合村(更北真島町)尊桂寺(そんけいじ)、牛島村(若穂)蓮生寺(れんしょうじ)、大塚村(更北青木島町)長徳寺、馬場の真勝寺が水入りとなり、丹波島村はじめ七、八ヵ村の川並みが悪くなって綱島村(更北青木島町)の一一〇石余が荒れ所になったことから、このころも犀川の右岸浸食がつづいていたと考えられる。

 寛政二年の洪水は、「千曲川がにわかに大水」となって一五ヵ村の国役御普請所を水破・流失させた。長野市域では牛島、真島、丹波島、川合新田(芹田)、大室(おおむろ)(松代町)、村山(柳原)、市村(芹田)の七ヵ村の御普請所が被害をうけた。用水堰揚げ口は、破損がかなり広範囲におよび、更埴地域の上郷(かみごう)六ヶ堰・矢代堰・内川堰・千本柳堰・若宮堰・犀口(さいぐち)三堰・小山堰、安茂里の久保寺堰、裾花川・浅川扇状地の大豆島(まめじま)堰・八幡(はちまん)堰・鐘鋳(かない)堰の一三ヵ堰が被害をうけた。洪水の多発で村々は困難をきわめたと思われるが、寛政八年に丹波島村の宿問屋・年寄と村方三役人は、難渋のため高二〇〇石の御手充(おてあて)存続願いを出している。「宝暦七年の大満水で川欠けが生じ、寛政元年・五年の大満水では起こし地が残らず押し流されたうえ、新川欠けが過半となった。さらに寛政三年から七年の年季引きの土地は置き土が薄く起こし地にならない」と訴えている。

 寛政十年以降の水害は、表9のようであるが、同十三年の煤鼻川氾濫では山抜けがあって、平常水位より三、四丈高く出水した。大石・大木が押し出し、川欠け・石砂入り・泥砂入りで建物・田畑が被害をうけた。大木は流末の妻科村(妻科)・窪寺(くぼでら)村(安茂里)・中御所村(中御所)まで押しだした。