文化元年(一八〇四)から慶応四年(明治元年、一八六八)にかけて起こった大小の洪水は、四七回におよぶ。表10はその概略で、文政十二年(一八二九)までは、松代藩主から公儀に差しだした水損届け史料にもとづいて作成した。天保年間以降は、松代領村々の災害史料が少なく、被害状況よりも見分願い・地押し検地願い・御普請願いや御手充下げ渡し願いなどが多く残されている。表10には、長野市域外の洪水・災害が多くふくまれるが、千曲川・犀川筋に関連しており、支流域をふくめた水害調査の手がかりになると思われる。
表10によると、大洪水は平均して三・八年に一回程度起こっている。文化四年五月から六月の洪水は、千曲川が一丈八尺、犀川が二丈の増水となった。戌の満水から六六年目にあたり、五月三十日朝には大地震があった。この洪水で上徳間村(千曲市)・柴村(松代町)の堤防が決壊し、下流部村々へ濁流が押しだした。岩野(松代町)や小森・東福寺・荒堀・水沢・神明・西寺尾(篠ノ井)の村々は、床上まで浸水した。松代町付近の神田川・関屋川・藤沢川も氾濫して、町内に浸水した。犀川筋では、上氷鉋(かみひがの)村(川中島町)の枝村北河原村裏に築かれた「子(ね)ノ土手」を押しきった。子ノ土手は、国役堤防の内がわに引かれた小山堰に沿って村裏に築造された村囲い土堤の西端にあって、南西に折れる土堤であった。堰筋に沿う浸水を防ぐ目的でつくられた堤防であるが、濁流は下流の大塚村(更北青木島町)・小島田(おしまだ)村(更北小島田町)・下氷鉋村(更北稲里町)辺まで押しこんだ。このほか犀川沿いでは、川中島・川北(犀川以北)の国役御普請所・川除けが押し払われ、数ヵ所に切所ができた。松代城内へは千曲川の水が浸水し、城下の侍屋敷は石砂入り・泥入りとなり、潰れ家となった町家もあった。この災害による松代領水難一五二ヵ村の石高損毛は五一三〇石であった(災害史料⑧)。
千曲川・犀川の洪水は、文化五年六月にも三回起こった。前年につづいて国役御普請所・川除け普請場が押し払われ、建物・田畑に浸水し川欠け・石砂入りとなった。山中の山抜け・川欠けもあり、水難一九三ヵ村の石高損毛は、従来の損毛と合わせて五万二一一〇石であった(災害史料⑨)。
文政六年(一八二三)八月、千曲川・犀川が洪水となり、上徳間村は一〇軒が流失、七軒が潰れ家、三九軒が石砂・泥入りの被害をうけた。松代藩は、今までは御手充がなかったが今回はまれなことであるとして、合わせて金一一両二分銀七匁五分(ふん)の御手充金をあたえた。文政七年八月の洪水で西寺尾村・大室(おおむろ)村(松代町)など八ヵ村にも九両の御手充金が出された(災害史料⑫)。犀川筋では四ッ屋村(川中島町)裏の堤防が決壊し、濁流は上氷鉋村・丹波島村・青木島村・真島村を貫流した。この流路は、小山堰沿いに東方へ向かったが、犀川本流は決壊した堤防付近から東北方面へ向かっていた。それは、普請が繰り返された結果の流路変更であって、大洪水で堤防・川除けが押し払われたときは、堰筋に沿う微低地が被害をうけた。文政年間(一八一八~三〇)から弘化年間(一八四四~四八)にかけても洪水が多発し、弘化四年(一八四七)の善光寺地震による山抜け・洪水は壊滅的な被害となった(本章三節参照)。
嘉永三年(一八五〇)以降も大小の洪水があいついだ。松代領の石高損毛は、表11のように洪水による損毛が多く、とくに安政二年(一八五五)は、千曲川左岸の塩崎村・西寺尾村の家屋にも浸水し、湛水(たんすい)被害が出た。同年七、八月はたびたびの洪水で御普請所・自普請所が大破しその修復をしたが、同三年八月には大風雨のため千曲川が一丈八尺、犀川が一丈余の出水で普請所が大破・流損した。同四年四月二十四日から五月朔日にかけても同じ箇所が被害をうけた。土屋坊(どやぼう)新田(朝陽南屋島)では同五年春の雪融け出水につづいて同五月十三日、同十六日、同二十五日、六月十三日、同二十三日とたてつづけに犀川の洪水に見舞われた。濁流は、市村(芹田)の切所から土屋坊新田の東西二ヵ所に押しよせ耕地一円に浸水した。七月二十三・二十七両日にも浸水し、都合二四日間の浸水で、川沿いの場所はよほどのところも「鋤(すき)打ち」しただけで水が湧きだすありさまとなった(『南屋島共有文書』)。
万延元年(一八六〇)五月十日、千曲川・犀川が大洪水を起こし、千曲川沿岸は刈りとった麦類の多くを流された。犀川沿岸では四ッ屋村裏の堤防が決壊したほか、丹波島村の権現堤・桝形(ますがた)堤が決壊して青木島村・綱島村・大塚村の家屋・田畑が被害をうけた。慶応元年(一八六五)から四年にかけても不順な天候がつづき、同四年(明治元年、一八六八)四月十八日から五月八日にかけて千曲川・犀川は七回増水した。四月十八日には、川合村(更北真島町)で二丈五尺の増水があり、真島村(更北真島町)の堤防が約六〇〇間流失した。西寺尾村(篠ノ井・松代町)では一〇〇軒に浸水し、麦作が大被害をうけた。五月八日の犀川増水では、川合村の護岸一〇〇間が決壊した。この洪水で犀川河床が浸食され、犀口(さいぐち)三堰取水口付近は八尺(二・四二メートル)余も河床が下がった。このため苗代水が揚がらず、三堰下流の住民は一〇〇日間余の渇水となり、飲み水にも困窮した。このような被害をうけた上堰(かみせぎ)は、けっきょく莫大な費用を負担して、操(繰)穴堰(くりあなせぎ)へ合併して揚水を確保した。