風雨・降雹による災害

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江戸時代における災害は気象災害が中心で、なかでも風雨災害が多い。集中豪雨や台風による大雨と水害、吹き荒れる強い風、ときには降雹(こうひょう)をともなうこともあり、大きな被害をもたらした。水害については本章第一節にゆずり、ここでは風害と雹による被害をとりあげる。

 寛政三年(一七九一)八月五、六日の二日間にわたって、晴れ間もなく大雨が降りつづいた。六日夜には強い風が吹き荒れた。千曲川・犀川と支流諸河川がおびただしく増水し、水防施設を押し流した。田畑は川欠け・石砂入り・押し掘りとなり、低い場所では民家も浸水した。山中(さんちゅう)村々では、竪畑(たてばたけ)(急傾斜地の畑)の耕土が押し流されて作物が失われたり、山抜け覆(おお)いが発生したりした。台風と思われるこの暴風雨と水害で、松代領内で一万二五二〇石余の損害をうけた。郡(こおり)奉行による被害状況の上申には「水損のない村でも、実りの時期を迎えた田畑の作物が強い風で吹き倒された」と、風害の大きさを指摘している(災害史料⑤)。

 このように、風害は台風など風雨災害の一部として発生しており、風だけによる被害は明和元年(一七六四)から文政十三年(一八三〇)までの約六〇年間に数例を数えるのみである(災害史料①~⑩)。長野市域は、全国五二気象台のなかで最大風速三五位、瞬間最大風速四九位というように強風の少ないところではあるが(『市誌』①自然編)、つぎのような強風被害も発生している。

 寛政三年八月二十日には、夕暮れから八ッ時(翌日午前二時ごろ)まで「近来にもない大風」が吹き荒れた。そのため松代城下町では武家屋敷・町家(まちや)の立ち木が吹き折れたり、塀・囲いが吹き倒されたり、屋根がおびただしく破損したりする被害が出た。村々では田畑の作物が吹き倒され、民家の屋根が損傷し、垣根や家屋が吹き倒された。とくに山中(さんちゅう)通りは強風があたり、建家五九軒が吹き潰され、半潰れとなった家屋も少なくなかった(災害史料⑤)。

 寛政十一年(一七九九)八月十九日には、昼夜にわたって大風が吹いた。とくに川東(かわひがし)通り(千曲川右岸)は風が強くあたり、田畑の作物が吹き倒され、民家も吹き潰されたり破損したり、住居の樹木がおびただしく吹き折られるなどして難渋であると、村々から訴えが出された(災害史料⑥)。このほか、文化十四年(一八一七)には、山中の村々から「四月二十八日から五月二十三日の間にたびたび大風雨で麻が吹き損じ打ち倒され難渋」と、被害の訴えと見分(けんぶん)願いが出された。市域では古間・五十平(いかだいら)・黒沼・坪根(七二会)、上宮野尾・山田中・小鍋(こなべ)(小田切)、入山(いりやま)(芋井)などの村が被災している。文政十年(一八二七)、十二年にも同様の災害が発生しており、地域的には山中の村が風害を訴えでることが多く、作物では麻の損害が多い。このほか、実りの時期とくに稲の開花時期における強風は収量に大きく影響するが、天候不順の一部にとりあげられている。

 つぎに降雹による災害についてみてみよう。安永四年(一七七五)五月十一日の降雹によって、麻・木綿のほか稲苗が打ち潰され、難渋であるとの訴えが村々から出され、とくに雹損の重い一九ヵ村が見分を願いでた。報告による被害高は、五九〇四石余であった(災害史料①)。つづいて安永六年四月二十四日には、大風雨とともにおびただしい雹が降って、麦・菘(とうな)(菜種)を打ち折り、収穫皆無となったところも多かった。そのほか木綿・麻・稲苗も、打ち潰され役にたたない状況になった九八ヵ村から松代藩に被害報告と見分願いが出され、見分の結果、雹損は一万四二〇石余にのぼった。なかでも、上布施村の籠村、小森村・東福寺村・中沢村・杵淵(きねぶち)村(篠ノ井)の被害は大きく、東福寺村などでは、損毛九分二厘(九二パーセント)・取毛(とりげ)八厘という状況であった。端境期(はざかいき)のため食糧の貯えがなく、村では夫食(ふじき)の拝借を願いでた。六月一日から九月十日までの一〇〇日分について、男一日五合、女二合五勺の割合で拝借を願いでて、それぞれの村の被害状況に応じて拝借が認められた。小森村では、男一四四人、女二二三人、計三六七人分の夫食として、取毛分を差し引いた大麦二三五俵を拝借した。また、麦納めの年貢について、広田村(更北広田)・小島田村(更北小島田町)など六ヵ村は減免を求め、広田村は半分、小島田村は三分の一の減免を認められた(災害史料②)。

 右の安永六年の雹害は、広く平坦(へいたん)部にも被害がおよんだが、雹害は山中での発生が多かった。文化六年(一八〇九)には、水内郡虫倉山山麓(さんろく)の村では降雹によって大きな被害が出た。四月二十五日申(さる)の刻(午後四時ころ)から雷が鳴り大風雨となり、おびただしい雹が降った。降雹は一尺四、五寸(約四、五〇センチメートル)も積もり、田畑や山林は一面雪中のようになり、日当たりの悪い場所では数日間消えずに残った。そのため麻をはじめ麦その他の作物が打ち折れ、打ち潰れとなり、水田は植えつけ時期の稲苗が打ち倒れた。畑の作物は、秋作の苗物はもちろん楮(こうぞ)や漆(うるし)の芽が残らず打ち砕かれるという前代未聞(みもん)の大荒れであった。被害は五ヵ村、三一二〇石にのぼった。松代藩では七月になって幕府老中に雹害損毛届を出すとともに夫食の援助をした(災害史料⑥)。長野市域の村は被災をまぬがれたが、雹の害はすさまじいものがある。

 文化十三年六月二十二日の降雹では、岩草・橋詰・五十平・黒沼・坪根(七二会)、上宮野尾・下宮野尾・山田中・小鍋(小田切)など表山中(おもてさんちゅう)の村々で、麻などが打ち倒される被害が出た。文政三年(一八二〇)にも、これらの村のほか、古間(七二会)、入山(芋井)なども大きな被害をうけている。

 雹害は、四月中旬から五月中旬に発生することが多く、この時期は、夏作の成育最中で収穫間近のものもあり、秋作は苗を育てている期間であり、この時期に大きな雹害をうけると、夏作が収穫皆無となるばかりでなく、秋作もしばしば蒔(ま)き直しとなり、適期を逃して実りが期待できないため、その打撃は深刻であった。