市域の年間降水量は九三八ミリメートル(昭和三十六~平成二年平均)で、北海道東北部の八〇〇ミリメートルにつぐ寡雨(かう)地帯である(『市誌』①自然編)。用水体系に不備の多い近世には、旱魃(かんばつ)の頻発(ひんぱつ)を免れなかった。一八世紀後半の明和年間(一七六四~七二)から寛政年間(一七八九~一八〇一)までのあいだに、つぎのような大旱魃が発生し、松代藩から幕府に災害報告が出されている。明和四年(一七六七)四万七一五八石、同七年五万二三六三石、同八年五万六五六八石、安永二年(一七七三)三万八七八四石、同四年三万一八九石、同六年三万五九二〇石(うち干損分は二万四三五〇石)、同九年二万八九一五石、天明四年(一七八四)一万八二四三石、寛政六年(一七九四)四万七五四四石と、平均三年に一度の発生である。
寛政六年の旱魃についてみてみよう。五月上旬から七月末まで三ヵ月間、雨らしい雨が降らず、日照りも強かったため被害が大きくなった。村からの訴えにたいし、松代藩では盆まえの見分出役(けんぶんしゅつやく)の派遣を見合わせていたが、七月になって「近来にもない長々の旱魃で日照りも強い」と事態を重くみて見分出役を決め、被害状況を調査した。見分は勘定役二人一組で四手に分け、東寺尾村(松代町)から川東・川北地域、西条村(同)から川中島・上郷(かみごう)地域、田野口村(信更町)から大岡・水内・土尻(どじり)川地域、中山通り・表山中(おもてさんちゅう)・北山中地域を見てまわった。八月になって、その結果を郡奉行から家老に上申した損毛状況は、田方一万一〇〇八石、畑方三万六五三六石、合計四万七五四四石であった。旱魃の原因として、五月上旬から七月二十九日まで照りつづいたこと、去年冬は例年より降雪量が少なかったため地中に貯えられた水元が細かったことをあげ、「長期にわたる旱魃で渇水して、池水かかり・谷川かかりの水田は水が届かないため立ち枯れ、畑方は作物の成育期に湿りがないため枯れ失せてしまった」と報告している。
さらに、九月十一日から十月十一日にかけて大検見(おおけみ)が領内を見分した。公儀への届け書に関する郡奉行の尋答書(じんとうしょ)によると、川北・川中島などの千曲川・犀川の用水のかかる平坦(へいたん)部の水田は例年より作柄がよく、水田つづきの田木綿も出来がよい。いっぽう、浅川に依存する浅河原(あさがわら)かかりや山岸通り・山中筋はもちろん、谷川・池水・天水かかりの田はどこもひどい旱損であり、畑の作物は近年まれな旱損であるが、被害状況に地域差があると指摘している(災害史料⑤)。
このように、旱魃の被害には地域差がみられ、とくに畑作の多い山中地域は被害が大きく被災回数も多かった。日照りがつづくと、引水源をもたない天水田(てんすいだ)と保水力のとぼしい竪畑(たてばたけ)(たてっぱちともよばれる急傾斜地の畑)がまずやられる。好天がつづき、里郷(さとごう)(平坦地)の水田では豊作に恵まれる程度のときでも、沢水や池がかりの山中の水田は水が途絶して、黒干(くろぼし)、さらにすすんで白干(しろぼし)(耕地が乾燥して白くなった状態)になり稲が立ち枯れる。灌漑(かんがい)の手立てがない畑では作物が枯れてしまう。また、前年の冬に積雪が少なかった場合は、地中に貯えられる水分が少ないため、旱魃の被害が発生しやすい。
旱魃の発生にたいして、村方では雨乞いをし、松代藩では開善寺や祝(ほうり)神社に祈祷(きとう)を命じ、その祈祷札を村々に配布したり、領内の寺社・修験(しゅげん)などにも祈祷を命じたりした。文政十年(一八二七)六月二十五日、日照りがつづくので豊作の御祈祷をさせるかどうかという下問にたいし、勘定所の元〆役(もとじめやく)らは「日を追って旱魃で田畑は干損し難渋と訴えが出されているが、各村々でもっぱら雨乞い祈念の最中であるから、四、五日見合わせてはどうか」と上申した。七月三日になって郡奉行は、日照りがつづいて村々から難渋との申し出があるので、郡中の寺社・修験らに雨乞いの祈念をするよう命じたが、まだ効果があらわれないので、修法(しゅほう)助勢のため四方の高山で焚(た)き火をすることとした。できるだけ高い山の峰で平地から火が見える場所を領内六ヵ所選定し、一ヵ所に金一分の手当てを支給して一昼夜の焚き火雨乞いをさせた(災害史料⑭)。
被害の救済措置として、松代藩では上納金の延納を認めた。寛政六年の場合、山中村々の畑作は皆無同様となり、上納金調達にあてる麻・楮(こうぞ)・漆も不作のため、難渋至極の状況になった。そこで松代藩では、月割り上納金の延納を認めることとし、八月・九月・十月分について、山中村々は半金、里郷の山付きの五〇ヵ村は三分の一の十一月までの延納を許した。文政元年には、強い旱魃で上納金の才覚もできないため、お咎(とが)め覚悟で上納不能を訴えでようという村方の「人気不穏(じんきふおん)」な情勢にたいし、藩では寛政六年の前例にならって延納措置をとった(災害史料⑪)。
災害の発生にたいして松代藩は幕府への被害届を怠らなかった。寛政六年には「領内一一万六四〇〇石のうち、寛保(かんぽう)の水害いらいの永荒れ所が四万二四〇〇石あるところに、当年の旱損が四万七五〇〇石に達し、収穫が見こめるのは二万六五〇〇石にすぎない」と届けでている。藩が災害のつど幕府に届けでるのは、種々の救済策を期待してのことであり、このときは、寛政元年から始められた囲い米を領民救済に振りむけることを求め、「当年分五〇〇石の積み込みを免除いただき、これまで積み入れた囲い籾二五〇〇石のうち一〇〇〇石をとりくずし、合計一五〇〇石を拝借したい」と願いでて、閏(うるう)十一月に老中の認可をうけている(災害史料⑤)。