長野市域における降雪・積雪の状況は、地域によって大きな差がみられる。北部は日本海がわの気候の影響をうけて降雪日数・降雪量が多く積雪期間も長いのにたいして、南部は内陸型気候で雪の量も少なく、根雪の残る期間も短い。また、盆地の平坦部とその周辺の山地では、標高差による違いが大きい。人びとは、それぞれの地域の雪の状況に応じた農業生産活動を工夫してきていたが、予期せぬ異常な降雪による被害をこうむった。雪害の事例をみてみよう。
安永八年(一七七九)山中(さんちゅう)村々では、四月三日から強風が吹きはじめ、夕方から翌四日朝にかけて雪が降った。その雪は五日まで消えず、麦は押し倒され折れてしまった。「四月の降雪は例がない。山中の村々は畑作ばかりのところが多く、麦作が皆無となっては暮らしが成りたたない」と、五九ヵ村が見分を願いでた。その損毛高は一万二五〇九石にのぼった(災害史料②)。
春になってからの大雪は、成育をはじめた農作物に大きな影響をおよぼす。春の種蒔きなどの作業も遅れがでる。この事例のように四月(太陽暦五月)になっての大雪は例が少なく、雪の下になった麦が壊滅的な被害をうけて訴えでたものである。このほか、初雪が異常に早く降り積もり、秋の取り入れが終わらない作物が雪の下になってしまうことや、多量の積雪が春の融雪洪水や山抜けなどを引きおこすこともある。
寛政五年(一七九三)四月には、松代領内の八四ヵ村から「去年暮れ大雪積もり、当春明け口遅く麦腐れ難渋」との災害報告をうけて、松代藩では勘定所役人を見分に派遣した。市域では、田野口・高野・三水(さみず)・今泉・氷熊(ひうま)・安庭(やすにわ)・山平林・赤田(信更町)、山布施・山村山・青池・中山新田・有旅(うたび)(篠ノ井)、吉久保・深沢・小鍋・山田中・宮野尾(小田切)、坪根・黒沼・瀬脇・五十平(いかだいら)・古間・橋詰・岩草(七二会)、入山・広瀬・上ヶ屋(あげや)・桜・鑪(たたら)・泉平・新安(しんやす)(芋井)、茂菅(もすげ)(茂菅)の一八ヵ村が被害をうけた(災害史料⑤)。
文化十三年(一八一六)にも、山中の村々が「暮れから春にかけて格別の大雪が積もったため、麦が氷腐れになった」と訴え、里郷の村々も「春の余寒が強く大霜にあたって、麦・菘(とうな)(菜種)の痛みがひどい」と見分を願いでている(災害史料⑫)。冬季間における積雪が多く積雪期間が長くなり、雪の下にある麦が雪腐れになったという訴えである。標高の高い山中の村々では、積雪量も多く気温が低いため雪解けが遅く、麦が雪害をうけやすい。麦は「百姓夫食(ふじき)第一」といわれるように百姓にとって主食であり、その作柄が生活におよぼす影響は大きい。
つぎに凍霜害についてみてみよう。長野市域は内陸部にあるため寒暖の差が大きく、盆地周辺の山地は標高が高いので夏でも冷涼(れいりょう)な気候であり、冬季は寒気がきびしい。秋の異常に早い寒波襲来や、春の季節はずれの大霜によって農作物が大きな被害をうけやすく、とくに春の遅霜(おそじも)による被害が大きい。
天明四年(一七八四)春の霜害の状況は、松代藩郡奉行の上申書によるとつぎのとおりである。「去年秋は冷害だったため諸作物の成育が悪く、麦の作付けも遅れてしまった。そのため発芽が悪く、少しばかり生えた麦も根張りが薄かったところに氷損を強くうけて、全体的に成育が悪かった。そこへ三月(太陽暦四月)のはじめ、たびたび大霜があたって霜の痛みがひどくなった。さらに強い風があたったり、雨に恵まれないことが重なって生育が悪く、出穂(でほ)が少ないだけでなく、出た穂も実りが悪かった。また、菜種は実りの時期にうけた霜の痛みがひどく実が枯れ落ちた。麻・木綿は蒔いた種の生え方が悪く、桑芽は霜にあたって枯れ失せ、百姓助成の養蚕もできかねる状況である」(災害史料③)。
春の凍霜害が、その後の畑作物の成育に大きく影響したことがわかる。氷損・氷腐れ・氷抜けなどと記される低温障害をうけた作物は、以後の天候状況への適応力や病害虫にも弱く、被害が大きくなる。同年は、里郷の田麦(たむぎ)の不作の訴えが出された。松代藩では、裏作の田麦については不作の訴えを取りあげない方針であったが、前年の凶作で領内の食糧事情がきびしい状況であったことから、見分役を派遣した。また、文化元年(一八〇四)にも、山中村々が大霜による麻の不作を訴えて見分の派遣を願いでた。市域では坪根・黒沼・五十平・古間・橋詰・岩草(七二会)、入山(芋井)、宮野尾・山田中・小鍋(小田切)の各村が被災した(災害史料⑧)。
このように、地域的には山中の村々が凍霜害をうけることが多かったが、平坦部の里郷にも被害がおよぶことがあった。山中の被害作物は、麦のほか麻・綿・菜種・桑など上納金調達にあてる作物で、山中百姓に大きな打撃となった。年貢金調達のためこれらの作物の作付けを増したことが、被害の増加につながったともいえよう。「当春雪明け口にいたり余寒強く」とか、「当春明け口寒気強く」とか記されるように、春になっても寒気が残り、積雪がとけないで残ったり、大雪が降ったり、遅霜がおりたりする。江戸時代は全体に寒冷な傾向であったが、とくに天明年間以後の約七〇年間は、歴史気候学で「寛政・天保小氷期」とよばれる寒冷な気候がつづき、人びとを苦しめた。