山中の山抜け

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山抜けは、「山抜崩(やまぬけくずれ)」「山抜覆(やまぬけおおい)」などとよばれ、傾斜地が崩落する土砂災害で、とくに市域西部の山中(さんちゅう)で多発して、人びとをおびやかした。西部山地には、はげしく褶曲(しゅうきょく)した第三紀層がひろく分布しているからで、とくに標高六〇〇から九〇〇メートルの範囲に発生する(『市誌』①自然編)。局所的に発生する小規模のものから、広範囲に継続的につづく地すべり的なものまである。道や用水路が崩壊したり、水田や畑が崩れ落ちたり上からの土砂で埋没したりするだけでなく、家屋が土台から抜け落ちて倒壊したり、土砂で押し潰されたりする住居被害におよぶことや、急激な発生で避難が間に合わず人命が失われることさえあった。山抜けの発生は、台風や集中豪雨など大雨によることが多いが、雪どけ時にも発生し、さらには地震によるものもある。地震の場合には、崩壊が広範囲に発生し、景観が一変するほどの大きな被害を引き起こすこともあった。

 山中では、古くから山麓(さんろく)や山腹に居住地や生産の場があり、人びとは経験的に、山抜けの発生しやすい危険箇所を避けて集落を営み、自然のさまざまな兆候の変化に心を配り、崩壊の危険を察知して避難するすべを身につけていたが、予測をこえた崩壊の発生によって被害をこうむることがあった。天保七年(一八三六)八月十七日、石川村(篠ノ井)で発生した山抜けは、横一〇〇間、長さ八五〇間という大規模な土砂災害で、三四軒が押しつぶされ、四二人の死者・行方不明者が出た。石川村は、山間を流れてきた聖川(ひじりがわ)が平地にでる谷の出口に位置する。最初の崩落で、聖川から水を引く二軒の水車小屋がつぶされ、七〇俵の米が土砂に埋まった。当時は天保飢饉(ききん)の最中で、貴重な米を回収するため、大勢の周辺住民が掘りだす作業をしているところに二回めの山抜けが襲(おそ)い、多くの犠牲者を出すことになった(「勘定所元〆日記」)。飢饉という社会状況が被害を大きくしたのである。


写真5 天保7年(1836)8月山抜け42人供養塔  (篠ノ井石川)

 享和元年(一八〇一)六月、鬼無里(きなさ)村(鬼無里村)山奥で発生した山抜けが川をせきとめ、その水が洪水となって流れくだった。煤鼻(すすばな)川が急に増水して大木・大石などを押し流して氾濫(はんらん)し、川沿いの田畑が川欠け・石砂入り・泥入りとなり、下流の長野市域にある妻科・窪寺(くぼでら)・中御所などの村々は、何の前触れもなく襲ってきた突然の洪水によって大きな被害をうけた。このように、はるか上流山地の山抜けが、下流平坦部の村々に思いがけない被害をもたらすこともあった。

 大型台風が襲来して大雨が降った寛保(かんぽう)二年(一七四二)の戌の満水(いぬのまんすい)では、松代領で九九二ヵ所の山抜けが発生し、明和二年(一七六五)四月の大雨では、一三一六ヵ所の山抜けが発生している。また、天明七年(一七八七)五月の大風雨では「山抜け埋め損じ家六二軒」、天明九年閏(うるう)五月には「山中村々山抜け覆い多く、建(竪)畑(たてばたけ)作毛流し押し山抜け損じ家一七軒」など、豪雨にともなって多発した山抜けが記録されている(災害史料④)。このように、藩では、山抜けを独立した災害としてよりは洪水被害の一部として把握していたと思われる。

 山抜け災害の発生にたいする松代藩の主な救恤(きゅうじゅつ)措置は、被害状況を見分して年貢・諸役を減免することと、当面の金穀貸与をおこなうことであった。山抜け地の災害復旧は地元村々に任され、藩は所要人足分の郡役(こおりやく)を減免したり、資金を無利息・長年賦返済で貸与したりするにとどまり、藩自身が大規模な工事に乗りだした例は見当たらない。安永八年(一七七九)は、減免の年季あけの年で、山抜け・川欠け・石砂入りなどの荒れ地について検討した結果、山中通りならびに里郷の山付きの村々に荒れ地が残っていることを認めており、山抜けの復旧が困難であったことがうかがわれる(災害史料②)。

 永荒れ地の増加は、藩財政窮乏の一因となった。それにもまして被災した百姓と村の痛手は大きかった。文化十三年(一八一六)五月には、広瀬村・上ヶ屋(あげや)村・泉平村(芋井)、坪根村・黒沼村(七二会)などから「抜覆いによって住居被害をうけ、別して難渋」と見分を願いでている。同年八月には、岩草村・橋詰村・五十平(いかだいら)村・黒沼村・坪根村(七二会)、小鍋村・山田中村・宮野尾村(小田切)など九ヵ村から「大風雨氷(雹)降りで作物が皆無同様になり、このうえ山抜け覆い・押し掘りなどが発生すれば住宅被害も懸念される」と、見分願いが出されている。翌十四年六月には、黒沼村から五〇両の拝借願いをうけた郡奉行は「山抜け後村方相衰え、潰れ(潰れ百姓)一人、潰れ同様のもの一五人」という状況を家老に報告している。同八月には橋詰村の山抜け覆い難渋人一一人が、御手充(おてあて)として二両三分の拝借を願いでており、返済は礼金(利子)なしの一五年賦としている。同じく吉久保村(小田切)では、山抜けによって居住できなくなり他へ引っ越さざるをえないとして上納免除を願いでるなど、山抜けの被害は深刻なものがあった(災害史料⑩)。

 文政三年(一八二〇)六月、あいつぐ山抜けの発生に悩まされた黒沼村は、村名改称を願いでて「倉並(くらなみ)村」と称することを許されている。改称を願いでた理由は史料で確認できないが、同四年に専納(せんのう)村(中条村)大塩組が覆いの地名を「大志」と改称し、和佐尾(わさお)村(小川村)が「抜谷・抜岸」という地名が不吉であるから、良い地名に改称すれば山抜けが止むと願いでたのと同様の考えによるものと思われる(災害史料⑫)。

 地震による山抜けの例として、弘化四年(一八四七)善光寺地震の場合がある。三月二十四日の大地震によって四万一〇五一ヵ所の山抜けが発生したと報告されている。まさに山中いたるところで山崩れや土石流が発生し、景観が一変するほどの大きな被害をうけた。その後、数年にわたって揺れつづけた震動が地盤にあたえた影響は大きく、明治時代以降に本格化する茶臼山(ちゃうすやま)や倉並の地すべりの誘因となったという(本章三節参照)。