全国の飢饉状況

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江戸時代の飢饉(ききん)といえば、ふつう享保(きょうほう)・天明(てんめい)・天保(てんぽう)の飢饉をあげ、三大飢饉として中学・高校の教科書にも記載されている。さらに、ここに寛永(かんえい)飢饉をつけくわえて四大飢饉とする。しかし、これはあくまでも通説であって、厳密にみると全国共通にいえることではない。たとえば、日本のなかでもっとも深刻な飢饉体験を強いられたと考えられる東北地方では、宝暦(ほうれき)飢饉・天明飢饉・天保飢饉を三大飢饉とし、これに元禄(げんろく)飢饉をつけくわえて四大飢饉とする。

 このように、飢饉には地域差があって三大飢饉とか四大飢饉とかいっても、地域によってその内容を異にするが、ここでは江戸時代において人びとへの影響がもっとも大きかったと思われる寛永・元禄・享保・宝暦・天明・天保の六つの飢饉についてその概要をみよう。

 寛永十八年から二十年(一六四一~四三)の飢饉は、江戸時代最初の全国的な飢饉として知られる。寛永十八年の凶作は、西日本一帯では旱魃(かんばつ)の影響が大きかったし、東日本では霖雨(りんう)(長雨)・冷害からくる影響が大きかった。翌十九年の凶作は、全国的に大雨・洪水による被害が大きく、二年続きの複合型異常気象が寛永飢饉につながったと考えられる。この時期は幕藩国家の成立期であり、幕府・諸藩主による過度の年貢・諸役の賦課が百姓の疲弊を慢性化させており、これが寛永飢饉を深刻化させたと思われる。また、寛永飢饉は幕府・藩などの対応原則-祭礼・仏事や男女の衣類の倹約令、酒造禁止令、本田畑(ほんでんばた)に煙草・木綿の栽培禁止令など-がつくりあげられた飢饉としても重要である。

 元禄八年、九年(一六九五、九六)の飢饉も東北地方に大きな被害をもたらしたが、これには東北地方が稲作の北限地域に生まれ変わったことと、京都・大坂・江戸の三都を中心とする全国市場に巻きこまれたこととが、その被害を大きくした原因と考えられる。さらにこの飢饉は、五代将軍徳川綱吉の貞享(じょうきょう)四年(一六八七)の発令から綱吉の死の宝永六年(一七〇九)までつづいた生類(しょうるい)憐みの令と時期的に一致することに注目したい。

 享保十七、八年(一七三二、三三)の飢饉は、西日本で最大の飢饉であり、蝗(いなむし)(ウンカ。イナゴ説もある)の大発生を原因とする大凶作であった。このときは、八代徳川吉宗政権であったが、幕府は総力をあげて西国大名の救済をおこなった。①大坂御蔵囲い米五万石、②江戸買い米三万石、③幕府年貢米一〇万石、④諸国城詰(しろつ)め御用米九万五五二五石などが西国へ回米された。このため、江戸でも米価が高騰して、都市下層民が米を買えなくなるような事態が生じた。このため、享保十八年一月、江戸の米商人高間伝兵衛宅の打ちこわしがおきた。いっぽう、民間においても自発的に窮民に食べ物をほどこす施行(せぎょう)や、食べ物を助勢する合力(ごうりき)がおこなわれ、その後の相互扶助の先例となった。また、飢饉には往々にして疫病(えきびょう)がともなった。このころ、諸国の薬草調査など医薬政策が展開した時期であるが、青木昆陽(こんよう)は享保の飢饉で民衆が苦しむのをみて、『蕃藷考(ばんしょこう)』を著わし、飢饉対策としてさつまいもの栽培を奨励した。

 宝暦の飢饉(一七五五~五六)は、「宝五(宝暦五年)の飢饉」ともいわれるが、東北地方を中心にした飢饉で、盛岡藩では約五万人、仙台藩でも二万人もの餓死者を出す惨状となった。仙台藩支藩の一関藩(いちのせきはん)に仕える建部清庵(たけべせいあん)は、救荒のための最初の本格的な書物『民間備荒録(みんかんびこうろく)』(図2)を出し、救荒書の先鞭(せんべん)をつけた。


図2 建部清庵『民間備荒録』
(農文協『日本農書全集』⑧より)

 天明の飢饉は、天明年間(一七八一~八九)の冷害や洪水などで全国各地に生じた飢饉である。また、同三年(一七八三)七月の浅間山の大焼け(大噴火)による砂降りなども、地域によっては作物の実りに微妙な影響をもたらした。天明三年から四年にかけての冷害による凶作では、東北地方全体で三〇万人をこえる死者を出したとみられ、江戸時代でもっとも悲惨な飢饉として知られている。東北諸藩は、酒造停止令を出したり、穀留めをしたり、領外から穀物を移入したりして対策をたてたが、十分な効果をあげるまでにいたらなかった。

 いっぽう、百姓がわでは、食糧を確保しようと城下町や港町の穀商を打ちこわしたりしたが、飢饉が本格化すると、城下町や他領・他国へ食糧を求めて流れ、さらには江戸へ流れこんで流民(るみん)化した。天明七年(一七八七)には、大坂・江戸で米穀商などにたいする大規模な打ちこわしがおきている。このような危機的な状況のなかで、天明七年(一七八七)、幕府内では田沼派が幕府から追われ、松平定信が老中首座に就任し寛政改革をはじめた。その一環として、幕府は飢饉対策に社倉(しゃそう)・義倉(ぎそう)などの備荒貯穀政策を推進した。この幕府の政策にならって、社倉の設置などの政策を推し進める藩も出てきた。

 つぎに天保の飢饉についてみる。この飢饉は、天保三(一八三二)、四年から同九年まで六、七年間もつづいた凶作を契機にしておきた飢饉である。全国的な影響の大きかった飢饉でもあった。年次によって地域差が激しい飢饉で、東北地方では同四年・七年がもっともきびしく、これに同六年や九年がついだ。信濃では同四年と七年が大凶作であった。主な原因は冷害である。死者数は奥羽地方全体で一〇万人前後にのぼるとみられているが、餓死者よりも疫病死のほうが多かったと推定される(菊地勇夫『近世の飢饉』)。この時代ともなると、天明の飢饉など過去の飢饉体験の蓄積があり、飢饉への対応策もいくつかとられた。従来の雨乞い祈祷(きとう)・穀留め・酒造制限・年貢減免などの政策だけでなく、社倉からの救い米、施粥(せがゆ)(図3)などがおこなわれた。


図3 施粥 『民間備荒録』より
  (農文協『日本農書全集』⑱より)

 このほか注目される飢饉には、江戸時代はじめの元和(げんな)の飢饉(一六一五~一六)、一七世紀後半の延宝(えんぽう)の飢饉(一六七四~七五)、畿内(きない)・西日本を中心におきた天和(てんな)の飢饉(一六八一~八二)、幕末・維新期の慶応二年(一八六六)と明治二年(一八六九)の大凶作があった。

 これらのうち、信州で顕著にみられた飢饉は、つぎのとおりであった。寛永十八年から二十年の飢饉、松本領を中心としておきた延宝二年から三年(一六七四~七五)の飢饉、天明三年から七年の五年間つづいた天明飢饉、また、天保三、四年から九年まで六、七年間つづいた天保飢饉であった。慶応二年と明治二年の凶作も人びとへの影響が大きかった。また、文政八年(一八二五)の凶作も見逃すことはできない。

 なお、凶作と飢饉とはほんらい別のものである。凶作とは、地震・噴火などの天災や気候不順のため、作物の実りが非常に悪いことである。飢饉とは、食糧が手に入らず人びとが飢え苦しむことである。したがって、凶作であっても穀物の備蓄量や輸入・移入穀物などが豊富であれば飢饉とはならない。このことは、平成五年(一九九三)の大凶作を考えあわせると明らかである。しかし、江戸時代の日本は海禁状態にあり、もちろん海外に穀物を求めることはできない。そのうえ、この時代は幕藩国家であるから、ひとつひとつの藩はいわば独立国家に準じたものであり、大凶作のとき各藩は融通しあうどころか穀留(こくど)め政策を取ることが往々にしてみられた。また、各藩の穀物備蓄量は決して豊富だとはいえなかった。加えて、近世後期になればなるほど各藩は財政難におちいり、大坂・江戸などの富商から膨大な借入れ金をおこない、その担保に秋の新米などをあてていたため、新米はその返済に向けられてしまうという実情もあった。このため、凶作がつづくと飢饉に直結しがちであったのである。

 最後に、作物の実りに大きな影響をもたらす天候の概要を江戸時代においてみてみよう。近年、現在の気候が今後どのように変わっていくかを推定するため、過去一万年前くらいまでの気候の変遷をたどる歴史気候学の進展がある。これによると、江戸時代は狭義の小氷期に相当する。広義の小氷期は、鎌倉時代の中期にあたる一三世紀半ばから一九世紀半ばまでの比較的寒冷な約六〇〇年間をいう。この期間は、南北朝時代末から室町時代後期にあたる一三九〇年から一五四〇年のやや温暖な一五〇年間によって分断される。この一五四〇年以降が狭義の小氷期にあたる。

 この江戸小氷期は、二つの小間氷期により、さらに三つの小氷期に時代区分される。一六一〇年から五〇年の元和・寛永小氷期と、一六九〇年から一七二〇年にあたる元禄・宝永小氷期と、一七八〇年から一八五〇年の寛政・天保小氷期である。このなかでも、極端な寒冷期は元禄・宝永小氷期と寛政・天保小氷期である。前者には元禄の飢饉が入り、後者には天明と天保の飢饉が入る。いずれも、冬季が非常に寒く、夏も冷涼(れいりょう)で多雨であった。この時代に入る天明三年(一七八三)は、夏の土用になっても帷子(かたびら)や単物(ひとえもの)を着ることができず、綿入れや袷(あわせ)で通したという。また、文化九年から十年(一八一二~一三)の冬には、隅田川や淀川が凍っている。天保四年(一八三三)と七年も綿入れが必要であったという(根本順吉「歴史気候学の進展」)。