市域の飢饉を以下にみていくが、天明と天保の飢饉は、人びとへの影響度が大きいため、別に項目を立ててのべるので、ここではそれ以外の飢饉についてみる。
市域で最初の飢饉の痕跡(こんせき)がみられるのは、寛永十八年から二十年(一六四一~四三)の寛永の飢饉である。寛永十八年から二十年は江戸時代初期であり、史料はほとんど残っていない。わずかに残る史料からその状態をかいまみよう。
寛永十九年三月、更級郡新田川合村(芹田)の新田開発主北村門之丞(もんのじょう)にあてた同村百姓三六人のつぎのような嘆願書(『県史』⑦一五〇)がある。「去年の大悪作と大洪水で、私どもの身命が相続しがたく、松代の殿様に拝借をお願いしたところ、少々下付された。しかし、これでは不足で餓死にもおよびかねない状態であったが、お情けをもって麦や稗(ひえ)、またその種子(たね)を下されて御救いいただきたいへんありがたい。このことを子孫まで申しきかせたい」。この史料から市域では、寛永十八年は「大悪作」と「大洪水」であったことがわかる。市域外ではあるが、寛永十八・十九両年の松本領では、「餓死するものがあって年貢の未進者が多かった」(『県史』⑤一二)。また、尾張領の木曽でも、寛永十八・十九両年は「作毛があしく、所々(しょじょ)(諸方)在々(ざいざい)(村々)にて民間くたびれ候」(『県史』⑥四七九)状態であった。
この時期、凶作・飢饉に直面した人びとが選択しうるのは、一つは逃散(ちょうさん)であり、一つは身売りであったという。更級郡安庭村(信更町)の又右衛門は、寛永二十年の飢饉にさいし、一四歳になる娘きくを一〇年間信濃追分宿(軽井沢町)の宮竹九左衛門に金子三分で質入れしている。年季明けに元金に利息を加えて返済し請けかえすという契約であった。このときの利息は、一年につき一分二朱ずつという高利であり、借金を返せないときは、この女子を「譜代(ふだい)」にするというものであった(牧英正『人身売買』)。このような身売り例は、市域外ではあるが、ほかに三例を佐久郡と伊那郡小林村(飯田市)で確認できる(『信史』28三〇四・三二七・四七六頁)。
つぎに注目したいのは、文政八年(一八二五)の凶作である。この年は四、五月に雨が多く、六月になっても低温がつづき、各地とも秋作が不作となり、米価も高騰し、百姓は窮状を訴えた。同年十一月、松代八代藩主真田幸貫(ゆきつら)は、幕府につぎのように田畑損毛の状況と損毛高を報告している。
松代領の山・里村々では、昨年の冬は積雪が早く、当年の春口はたいへん寒気が強く、麦などが腐り、そのうえ三月中は照りつづいて湿気がなく、村々が難渋している。四月になると大雨で出水があり、山抜けや川欠けが起こり石砂が田畑に入り、石高で二万一四一一石余の損毛を出した。このことは、すでに五月に届けでてある。さらに土用明けの数日間は不順の冷気で、秋中南風が強く、田の稲に渋入りがあり、とくに晩稲(おくて)の穂が遅れている。山中では実りが皆無同様の村々が多く、さらに畑の麻と木綿が不作で、委細を調査したところつぎのような損毛高があったことを御報告申し上げる。
高五万八六〇石余 本田・新田とも ただし村数一九〇ヵ村
内
一万九二一〇石余 畑方 当春麦・菘(とうな)氷腐れならびに四月中大雨出水水損高
四九八石余 田畑 当四月中大雨出水、山抜け・川欠け・石砂入り荒れ所高
三万一一五二石余 稲作渋入り穂枯れ出し噤不熟(つぐみふじゅく)ならびに麻・木綿不作高
三万一一五二石余の内訳は、田方二万三五四六石余、畑方七六〇六石余であった(『市誌』⑬四〇四)。
この年、松代藩は、家中(かちゅう)(藩士)にたいしても、「この秋は、米穀が不作であるので、吉凶のときは、他人はもちろんのこと、親類であっても餅や赤飯などを贈ることは見合わせなさい。もっとも義理あいの付け届けは、吉凶とも相互に包み銀や包み銭で取り交わしてもよろしい」と、触れを出している(『松代真田家文書』国立史料館蔵)。
また、同年十一月には、「国家凶荒の備えがなければならないところ、いままでは差し障りがあってできなかったが、この備蓄は家中・領民にとって肝要なことであるので、社倉(しゃそう)を取りたて、多少にかかわらず籾(もみ)を倉に積みいれるように」と社倉囲い米を奨励する目論見書(もくろみしょ)を触れだしている(『県史』⑦一七四九)。この社倉は村々で順次建造されて米穀が備蓄され、やがてくる天保飢饉に生かされた。
最後に慶応元年から二年(一八六五~六六)の不作をみよう。上田藩川中島領の更級郡岡田村(篠ノ井)など五ヵ村は、「この夏は不順の気候で稲作がよろしくないので、年貢の定免(じょうめん)を用捨いただき、検見(けみ)をお願いしたい」と求めている(『青木家文書』長野市博寄託)。その翌年、塩崎知行所の今井村(川中島町)では、「田植え前から不順の気候で、その後も雨天であり、暑中になっても冷気で、二百十日ころになってようやく早稲(わせ)の穂が出はじめた。しかし、その後も大雨が降りつづいて千曲川の洪水があり(中略)、諸作が不熟で、そのうえ諸物価が騰貴し一同難渋している」として役所にお救いを嘆願している(『赤沢家文書』長野市博寄託)。このように、慶応元年から二年の不作も記録に残るような大凶作であった。