天明の浅間大焼け

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「天明の浅間大焼け」で知られる浅間山の大噴火は、天明三年(一七八三)四月八日から七月八日まで三ヵ月つづいた。この噴火の直接の影響は、風向きの関係もあって関東地方にはげしく、火山灰・火山礫(れき)が降りそそぎ、成長期にあった農作物の成育をさまたげた。しかし、信濃国関係では追分・沓掛(くつかけ)・軽井沢の浅間三宿(北佐久郡軽井沢町)に直接影響があったものの、長野市域にとってはどうであったのか。

 松代藩の記録によると、「六月十八日夜、浅間山が焼けだし、高井郡湯田中村・沓野(くつの)村・佐野村(山ノ内町)に砂灰が降った。また、七月六日晩から八日までは、山が焼け強く鳴って松代まで震動があった」(災害史料③)が、直接的な被害はなかった。また、市域に隣接する南牧村(大岡村)の倉嶋義智(よしとも)は、天明三年から明治二年(一八六九)までの作柄を天候との関連で記録した「昔飢饉書」(『市誌研究ながの』⑥)で、「七月七日朝よりあさま山やけだし、追分より坂本(群馬県松井田町)迄ふり、五、六尺程かさなり、又世の中鳴ること、其の音地に響き」と記録しているが、市域とその周辺については言及がない。市域では噴火の直接的影響はなかったと思われる。しかし、成層圏に舞いあがった火山灰は、日光の照射をさまたげ、ひろく悪影響をもたらしたとされており、市域の作物の実りにも微妙な影響をあたえたと考えられる。