天明の飢饉はすでに天明元年(一七八一)から始まっていたが、翌々三年には浅間大焼けとからみながら本格化していき、同七年までつづく。この天明年間(一七八一~八九)は、歴史気候学でいう寛政・天保小氷期(一七八〇~一八五〇)に該当し、寒冷な気候であった。農業の場合、気温が一、二度低いと作柄に大きな影響をおよぼすので、この飢饉の原因は主として低温によるものと考えられる。
今井村(川中島町)では、天明三年九月、塩崎知行所へ秋作不作の報告をつぎのようにおこなっている。「秋作がもってのほか不作で難儀しています。田方は七月からの雨天で、出穂がことのほか遅れ、そのうえ時節不相応の冷気が強く、稲穂が実入りかねている。木綿・大豆も田畑同様大しぶで種をとるほどの収穫がありません。そのほか、少しずつ作っているものも、なにもかも不出来なので、御見分願いたい」(『堀内家文書』県立歴史館寄託)。また、同年十月、桐原村(吉田)は、地頭(じとう)(知行主)と考えられる松代藩士金井伊膳(いぜん)へ、「田方は前年からの不作、畑方も単作の木綿が不熟なので年貢・諸役負担は困難であり、潰れ・欠け落ちが多く出ている」(『市誌』⑬四〇〇)、と嘆願している。翌四年四月、同じ今井村で、「当年春から数年来の旱魃(かんばつ)で、麦作は田畑ともに穂が出ません。昨年の秋作は大不作だったので、だれしもが当年の麦作の収穫で補おうと考えていましたが、穂が出ないので一同が難儀しています。もっともここへきて少し雨が降り穂が少々出ましたが、時節おくれで実入りがありません。木綿も時節相応に蒔きましたが、畑方ではいっさい育たない。麦作が不作だったので、おおかたの村人は黍(きび)を蒔きつけたが、これもいまだに生えてこない。そこで、今でも食べ物がなく行き詰まってしまった人びとがいるけれど、この分では田植え前後から中以下の村人には食べ物がなくなってしまう者が多くなると思うので、御役所に御注進申しあげます」(『堀内家文書』)としている。
このような里方での不作の状況を、上田藩川中島領岡田村(篠ノ井)の寺沢富衛の「天明三年卯年(うどし)略記」(『寺沢家文書』県立歴史館寄託)で再確認し、同時に穀物価格の上昇ぶりをみよう。
(天明三年は)麦作七分、木綿五分の悪作、晩稲(おくて)大凶作、菜、大根あしく、籾値段三月は(一〇両あたり)四十二、三俵にて、七月十七日の頃より急に穀引きあがり申し候て四十俵に相成り、これより日々にあがり三十二、三俵にあがり、九月中は二十四、五俵までにあがり申し候、(中略)天明四年正月下旬より米穀はなはだ値段あがり、金十両につき籾二十四俵より、後(あとの)(閏(うるう))正月中旬には二十俵にのぼり、それより二月下旬に至りてはなはだ高値に相なり、金十両につき籾子(もみこ)十三俵つかまつり、大麦金十両に九俵なり、小麦金一両につき五斗になり、米百文につき五合、六合つかまつり、米金一両に三斗八升くらい、大豆金一両に五斗なり、小豆百文六、七合なり、木綿一両に五貫目なり、(中略)この節おおきに差しつまり、百姓大小とも木の葉をとり、あるいは毎日山へ参り、諸草木をとり、麦作まで相しのぎ申し候、(中略)米穀値段の儀、当所も米百文につき五合なり、江戸も百文に米五合、京都・大坂・伊勢山田等も同値段に御座候、当国町家々々屋敷多く候て農業つかまつらず候処は、もってのほかに難儀つかまつり、餓死も少々はこれある由に御座候、江戸にては、だいぶ両国橋へとびいり死し候者御座候、そのほか国々の府中にても裏屋々々において、餓死多くこれあり候なり。(中略)三月上旬、はなはだ穀など高値につき、越後高田より米・大豆参り申し候、高田にて金十両につき米四斗俵、十四俵の値に御座候、これより松代様・上田様はじめ善光寺大勧進にてもお買いなされ、そのほか町人・富人ども多く買い候て、日々に二十駄、三十駄ずつ毎日参り、米ばかり参り、上田綿屋ばかりも五百両相調(ととの)い申し候、右につき四月中より諸穀下直(しょこくげじき)に相なり、十両に十五、六俵より五月にいたりては二十俵にあいなり、六月中より稲作諸郡宜(よろ)しくこれあり候につき、七月上旬には四十俵に下り、それより段々稲作宜しく候につき、いよいよ下がり、八月彼岸後には五十二、三俵までに下がり申し候、(下略)
以上のような不作のありさまと穀物価格の高騰傾向は、平坦地の村々だけでなく山中の村々にもみられる。たとえば、松代藩の行政区画で「里郷」にたいして、「山中(さんちゅう)」といわれる西部山間地の更級郡田野口村(信更町)についてみると、田野口村の村高は四九六石九斗六升、枝郷の境新田村は六七石六斗九升である(元禄十五年信濃国郷帳)が、このうち天明五年四月の悪作高は、本村で一四五石六斗、境新田村で一〇石四斗で、悪作高は村高のうち約三〇パーセントと約一五パーセントにのぼる。先にみた南牧村も山中であるが、その「昔飢饉書」によると、「天明三年は大飢饉で夏作の大麦・小麦は七、八分(七、八十パーセント)くらい、(中略)秋作は大変悪く皆無同様で、田方は一〇俵取りの田で一俵半くらい、畑方では蕎麦(そば)が五分、大豆が三分、小豆(あずき)が一分、粟(あわ)・稗(ひえ)が一、二分くらいであった。(中略)天明四年は夏作がよく大麦が九分、小麦は五分くらいで、時候がよくて七月二十七日には新米ができた。田作りはよかったが畑方の秋作は干損で実入りが悪かった。同五年には、夏の大麦・小麦は山中は皆無で、里方は上作であった。同六年は半凶作で春日は照り、大麦・小麦はともに半吉、夏・秋とも雨が降りつづいたため、秋作は不作で二、三分くらいで、五分のところが一番多かった。同七年は夏作の大麦・小麦・諸作物は八分のでき、秋作の田畑は六、七分のできで、松代藩からの御手充(おてあて)はいっさいなかった。翌八年は春・夏作は大麦はよく、小麦は不作、秋作は田畑ともによく、今回も藩からの御手充はなかった」。市域の山中村々はほぼこれと同じであったと考えられる。
表12は、里郷の川中島平の一村岡田村と、善光寺町と、松代藩山中の南牧村の穀値段などを比較したものである。天明の飢饉で最大の損毛高を出したと考えられる同三年、善光寺町では、六月から十二月にかけて、籾が一〇両あたり四三俵から二四俵にあがり、翌四年正月には、さらに一八俵にまで騰貴している。新穀が出はじめる八月には一〇両あたり四五俵から六〇俵にまで下がったが、米の不作から十一月にはふたたび四〇俵にまで上昇した。この傾向は、ほぼ上田藩川中島領にもあてはまるし、松代領里郷にも通じると考えられる。
この価格を、天明飢饉がはじまる二年前の安永八年(一七七九)十一月の善光寺町籾相場(『長野市史』)と比較してみよう。安永八年の場合、金一〇両あたり上籾五一俵・中籾五八俵・下籾六五俵であるのにたいし、天明三年六月から四年正月にかけての相場は、四三俵から一八俵であった。天明飢饉時での米価高騰ぶりが明らかである。善光寺町民や山中・里郷の村人の飢饉との苦闘がはじまる。
天明四年正月には、塩崎村(篠ノ井)で四人の餓死者が出ている。そのうち、三人が七〇歳代の高齢者であった(塩崎 片山貴蔵)。また、翌五年三月には、松代紙屋町の桜井清之進抱え屋敷に居住の善右衛門後家も餓死している(大宮市小坂順子蔵)。これはごく限られた範囲内での史料であるから、市域全体の餓死者数はもっと多かったと考えられる。東北諸藩の膨大な数の餓死者、たとえば弘前藩(青森県)の天明三年春から翌四年二月までの六万四〇〇〇人(菊地勇夫『近世の飢饉』)にくらべれば(表13)、わずかな人数ではあるが、市域にも餓死者が出たということに注目したい。また、天明四年には、古海(ふるみ)村(信濃町)あたりのものに、越後からの流民(るみん)も加わって、善光寺町などへ昼夜の別なく流れこみ、食物や残飯、ゆでものの湯まで乞い歩いた。ことに善光寺町には、郷里を捨てざるをえなかった人びとがおびただしく集まってきた。霊験あらたかな善光寺にすがろうとする人もあったろうし、北信随一の都市であることをたのみに流れついたものもあったであろう(『県史通史』⑥)。市域ではないが、松代領山中の和佐尾村(小川村)では同六年十一月、次郎兵衛など四人は昼間は食べ物もらいに出ているらしく姿がみえず、朝夕のみみかける。また、喜右衛門など三人はこのごろ姿をみせていない、と書きとめられている(『県史』⑦一七三六)。