村々の対応

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天明六年二月に鬼無里村(鬼無里村)の新六は、息子の弥助を一年間、金一両一分二朱の給金で里村山村(柳原)の善助へ奉公に出している(大宮市 小坂順子蔵)。当時、奉公人給金は低下し、男子が金一両から一両二、三分であった。女子はいっそう下がり、金一分二朱から二分で、なかには金一分とか銭五〇〇文の奉公人もいた。娘を奉公人に出そうとする村人がたくさんいたため、女子奉公人はあまりぎみであった(『県史』⑦二二五三)。翌年七月、今里村(川中島町)の六左衛門は、上納に差し詰まったため、高九斗の田地を質入れし金三両を借用している(今里 坂口賢一蔵)。このような息子や娘の年季奉公、田畑を質入れしての金子の借り入れなど一時しのぎの対応には、おのずと限界があった。そこに、合力(ごうりき)がおこなわれたり、五人組や村共同体で対応せざるをえない場合が往々にして生じる。

 先にみた塩崎村の餓死者を出した家々では、五人組をとおして、名主に御手当てを嘆願している。また、天明四年六月、石川村(篠ノ井)の南沢源之助は、金子二一両二分と銭一貫文を村の夫食(ふじき)のない小百姓に合力している。このような例は、田野口村(信更町)・牧田中村(信州新町)・腰村(西長野)・栃原(とちはら)村(戸隠村)・水内村(信州新町)など諸村にみられ、合力者は松代藩から諸役減免などの褒賞(ほうしょう)をうけている(災害史料③)。これらは村落に内在している相互扶助のあらわれであろう。

 天明三年十一月、桐原村(吉田)では、「田方が大悪作でいっこうに取り実がなく、とくに畑方では木綿が皆無同様であり、そのほか大豆はじめ諸作も全然収穫がない。そこで、村中が打ち寄り種々協議した結果、当秋は年貢籾一五俵を上納し、残り分と江戸出し御飯米は来年まで上納延期をお願いしたい」(『県史』⑦一七三三)としている。また、塩崎知行所下郷の今井・上氷鉋(かみひがの)(川中島町)・中氷鉋(更北稲里町)の三ヵ村では、天明五年正月、つぎのような嘆願をおこなっている(『堀内家文書』県立歴史館寄託)。

近年打ちつづき不作で、とくに一昨年は大不作で一同難儀しているところを、御慈悲により御救い米を下されたいへんありがたかった。しかし、去年も大不作で難儀している。田作が少々よいように見えたけれども、刈りとってみるとさほど取り実がなく、そのうえ木綿・大豆・菜大根などは皆無同様で、下々(しもじも)の者は冬の暮らしの夫食が一向になく困窮した。そこで、村役人が打ち寄り手を尽くして渇命(かつめい)しないようにした。しかし、ここにきて下々の者は春の夫食がなく困窮し、村役人にももはや打つ手がない。人数を調査してあらためて申し上げ、お手当てを頂戴したい。

 飢饉状況下で、このような嘆願は、あちこちの村々でおこなわれた。

 天明三年九月、安中領を中心とした西上州畑作地帯の貧民層は、日ごろ依存している信州からの移入米がとだえ米価が高騰するなかで、碓氷峠(うすいとうげ)を越えて佐久・小県両郡へ米を求めて侵入した。天明上信(じょうしん)騒動である。翌年十月には、松代領山中の二一ヵ村が、いわゆる天明山中騒動をおこした。松代藩が昨年の年貢の取り延べ分と、遅滞している拝借金の返納を命じたからである(一三章三節一項参照)。また、同年十月、「水内郡三輪村辺りで騒々しき筋これある由相聞こえ、不届きの至りに候」(災害史料③)として警戒している。領主がわもなんらかの対応を迫られていたのである。