松代藩などの対応

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松代藩では、天明元年(一七八一)から同八年までの田畑損毛高とその損毛の原因を表14のように把握していた。これによると、天明二年と同八年は幕府へ損毛届けを出さずにすませた程度であったが、この両年を除くと、天明年間は毎年多額の損毛高があり、同三年の四万石余と同六年の三万九〇〇〇石余とがとくに多かった。損毛をもたらした要因は、四年は旱魃(かんばつ)、同元年から七年までは長雨低温による田畑の作毛不熟であった(『真田家文書』真田宝物館蔵)。


表14 天明元~8年の松代藩田畑損毛高

 松代藩は、この不毛高を年々幕府に届けでている。一例を損毛高最大の天明三年についてみよう(災害史料③)。

先だって段々申し上げ候とおり、私在所信州松代、当六月中旬、時候不順にて諸作育ちかね、雨腐れ多く、七月中旬大雨降り続き、千曲川・犀川そのほか川々出水、田畑水押し・川欠け・石砂入り荒れ所出来(しゅったい)、それより八月下旬まで雨天勝ちにつき、稲作冷噤(れいきん)、穂出(い)で申さず、皆無の場所多く、もちろん出穂の分も旬後(しゅんおくれ)にてはなはだ不熟つかまつり、畑作は数日の雨湿りゆえ一向実入り申さざる所多く、そのうえ浅間山焼け砂・灰にあいあたり候場所は作毛は皆無にまかりなり候、これにより、なおまた明細見分相ただし候ところ収納の上損毛高の覚え、

一高四万百二十一石余 本田・新田共村数百九十一ヵ村

      内

  千二十一石余     田畑荒れ所  但し、永荒れに相なるべき分

  二万八千百四十五石余 田方

  一万九百五十五石余  畑方

右の通り御座候、この段御届け申し上げ候、以上、

   十月               御名(真田幸弘)

伊豆守(幸弘)領分前々より御届け申し上げ候永荒れ四万石余御座候うえ、当年損毛高別紙の通り御座候、この段御聞き置かれ下され候よう仕りたく存じ奉り候、以上、

 これによると、松代藩では、前々から幕府へ永荒れ高として四万石を届けてあるところ、天明四年にさらに損毛高として四万石余を届けでた。天明三年(一七八三)現在、松代藩の損毛高は表高一〇万石のうち、都合八万石余にのぼったことになる。

 このように、松代藩では年々の損毛高を把握して幕府に届け、具体的な対応策をつぎのように打ちだしていった。対応策はおよそ、個々の村々にたいするものと、全領にたいするものとに二分できる。以下、災害史料③・④を中心として松代藩の対応をみていこう。

 個々の村々にたいするものには、つぎのようなものがある。天明元年(一七八一)十一月、北郷(きたごう)村三ッ出組(浅川)では、村高が少なく、そのうえ困窮しているので、藩で詮議のうえ三ヵ年間、丑(うし)年(天明元年)には籾一五俵、寅(とら)年(同二年)には籾一〇俵、卯(う)年(同三年)には籾五俵を下付することを申し渡している。翌十二月には、加賀井村(松代町東条)など九ヵ村が困窮しているので、郡(こおり)役御手充て引きなどを申し渡している。天明二年十二月には、北上野(うわの)村(若槻)などが難渋しているので、継続して御手充てを支給したらどうかという郡(こおり)奉行袮津要左衛門・小川多次の伺いにたいし家老は認可している。このような難渋村々にたいする御手充ての具体例は多数にのぼる。なお、借財がかさみ自力打開のすべを失った村にたいしては、難渋村御手入れ制が適用される(一三章三節参照)。

 全領にたいするものには、天明三年七月、「飢饉懸念(けねん)につき夫食(ふじき)心構え領内触れ」ともいうべき触れが出された。「大豆・小豆(あずき)・大角豆(ささげ)などの葉、山中は葛(くず)の葉までもとって囲い置き、勧進僧(かんじんそう)や物もらいには施すな。百姓は、菜大根・黍(きび)・稗(ひえ)・干菜(ほしな)などを食物にまぜ、つねづね粗食せよ」。翌八月には、「不作につき江戸へ出す御飯米金の月割り上納月は延期してよい」。また、同月「難渋村を援助するためには拝借金の利子を下げ、長期間にわたって返済するようにするのがよい」とする。また、翌八月には穀留め令(こくどめれい)を出し、天明四年正月には、穀留めに違反した者は厳科(げんか)に処すとしている。それでも徹底しなかったとみえて、同年三月には松代城下の馬喰町・荒町に穀留め番所をおくことを触れている。

 天明四年正月には、家中にたいし「去る秋から諸作が不熟で、米穀が高値になり作事(さくじ)をみあわせているので、領内の職人が難渋している。もっと普請をおこなうように」と、難渋職人救済のため武家屋敷の普請を奨励している。また、同年四月には、飢饉時には、塩を摂取(せっしゅ)するようすすめている。「飢饉のとき、人が死ぬのは食べる物がないから死亡するのではない。数日塩を取らず胃袋に塩と穀米がないところに山野の草根や木の葉を塩をまじえずに食べるため毒があたり死ぬのだから、名主・組頭は心してその村々に塩を貯えおくように」と触れを出している。また、同じ四月に「城下に売り米が少なく、大勢が難儀していると聞いている。そこで、越後から買い入れた玄米を松代中町の町検断杭全(まちけんだんくまた)平左衛門方で朝の四ッ時(午前一〇時ころ)から夕の七ッ時(午後四時ころ)まで売り渡す」としている。このときの玄米売り渡し値段はつぎのとおりであった。

  金一〇両につき玄米二斗八升入りで一六俵   金一両につき  玄米四斗五升売り

  金三分につき 玄米三斗三升七合五夕     金二分につき  玄米二斗二升五合売り

  金一分につき 玄米一斗一升二合五夕     南鐐(なんりょう)(南鐐二朱銀)一斤につき玄米五升三合二夕五才売り

 同年二月には、赤田村(信更町)が「他所への奉公人は、先年から禁止されているのに、近年はみだりに他所奉公に出て、そこから欠け落ちなどをする者がいる。このようなことが分かった場合は、本人はもちろん、親類・五人組・名主・組頭・長百姓まで罰せられても一言の異議を申しあげません」と請書(うけしょ)を出しているように、働き手の流出を禁じる触れを再令している。

 天明五年になると、山中村々の不作難渋にたいする対策が目立つ。たとえば、六月に山中村々を見分したところ、夫食極難渋者が多数いたので、「当月分の月割り上納金の三分の二は、十月へ取り延べ上納とする」と申し渡している。

 翌六年には、二月に郡奉行小川多次が安永五年(一七七六)から去る巳(み)年(天明五年、一七八五)までの一〇ヵ年間、月割り上納金を皆済した村々に褒美として合計で金一二二両三分と銭四貫文を支給している。月割り上納年季明けのときの慣例であるが、このようなことは、飢饉のあるなしにかかわらずおこなわれている。また、八月には家中にたいし厳重倹約を申し渡している。

 天明七年九月、水内郡大安寺村(七二会)・東和田村(古牧)、更級郡上布施村(篠ノ井)などで、衣服・嫁取り・婿取り・葬式・法事・遊び日など一五ヵ条にわたる箇条で倹約を順守する請書(うけしょ)を出しているので、おそらく松代藩から倹約令がいっせいに領内に出されたと思われる。塩崎知行所では、同年同月、酒造禁止令を出した(『堀内家文書』)。

 幕府領では村々に備荒貯穀をおこなわせた。天明八年七月、幕府領栗田村(芹田)では、中之条役所の代官守屋弥惣右衛門(やそえもん)に、麦三俵・籾子(もみこ)三俵・干し菜二〇連の囲い穀の預かり証文を出している。同年九月同じ栗田村(村高八〇七石五斗五升余・村人五三三人)で、一人あたり一合五勺ずつ一〇〇人分の籾一斗五升と、一人あたり二合ずつ四三二人分の麦八斗六升四合、合計で一〇斗一升四合などを囲いおいていることを中之条代官に報告している。代官所からまず下げ穀を渡し、これを呼び水にして村に囲い穀をおこなわせたのである。このように、諸領では飢饉対策をいろいろとおこなった。