松代領山中の更級郡田野口村(信更町)では、天保三年(一八三二)夏「長雨で秋籾が結実せず」、翌年も「春から気候不順で、八月は大風雨が吹き、村内では山抜けが四四ヵ所も生じた。さらに大霜がふり、稲作が不熟であった」(『田野口区史』)。この状況は、松代領山中に共通にみられたことであろう。
翌天保四年には、平坦部でも「冷雨がちで、稲が青立ちしており、とても実りがたく、収穫は皆無同様であり、木綿もまた青立ちで嘆かわしい状態」(『久保田家文書』県立歴史館蔵)であった。翌五年は天候は幾分もちなおしたが、同六・七年と不順な天候がつづいた。越後椎谷(しいや)領の中御所村(中御所)では、「(七年)四月から雨がちで、田植えが遅れた。ようやく田植えが終わったが、降りつづく雨で田も畑も不熟で、木綿も包みが一房も口開けしなかった。九月には大霜があり、稲穂が枯れた」(中御所 篠原昭彦蔵)。中御所村の東隣りの栗田村(芹田)の住民は、この七年を「大霜降り候て、立ち枯れに相なり、去る酉(とり)年(文政八年)・巳(み)年(天保四年)両年の凶作とは甚だ相違する」と深刻にうけとめている。つづく八・九年の天候は、「四年や七年ほどの長雨はないが、降雨量は例年にくらべて多く、十月末には降雪があり、霜は四月まで降りつづいた」という(『県史』⑦一七五九)。
この間、米・小麦・大麦・大豆(だいず)・小豆(あずき)など穀物価格は高騰したが、その高騰ぶりを、善光寺町の場合は同町問屋「小野家日記」で、松代領山中の場合は更級郡南牧村(大岡村)の「昔飢饉書」(『市誌研究ながの』⑥)で、松代町の場合は「天保凶歳米価一覧表」(『松代町史』下)で比較検討してみよう(表15)。
表15からわかるように、善光寺町の米価(白米)は、天保四年後半から少しずつ上がりはじめ、一両につき四斗二升となる。同八年正月には、七年の凶作を反映してか二斗三升と天保飢饉下では最高値となり、飢饉が終息した同十一年十一月には一石五升六合の安値となった。この傾向は松代相場でも同じであり、同四年十一月には四斗三升となり、八年三月には最高値の一斗九升となっている。松代領山中では、白米の取り引きは水田のとぼしい地域がら活発ではなく、むしろ小麦・大豆・小豆などがさかんに取り引きされたと考えられ、七年十二月には小麦・大豆・小豆などが最高値を記録している。また、銭一〇〇文についての白米の小売価格は、善光寺町では天保八年五月から六月が最高値で二合五勺であり、同十一年十一月には一升七合と低下する。松代領里郷でも同八年の四月下旬から五月初めにかけて二合五勺から三合近くと最高値を記録している。平常年なら八合から九合であるから、松代町相場でも善光寺町相場でも、平年の約三倍の高値である。
飢饉下の天保年間、善光寺町では、盗難や捨て子が多かった。天保八年九月、善光寺阿弥陀院町(栄町)の寅五郎は、「一昨六日夜、家内が湯屋へ出かけたので、鎖(じょう)をかけておいたが、帰宅してみると鎖がなく、戸があいていた。そこで改めたところ何者かが忍びいり、蒲団(ふとん)・湯瓶(ゆびん)が盗難にあっていた」と届けでた(『今井家文書』県立歴史館蔵)。
このような盗難事件は、天保八年九月から同九年五月にかけて頻発した。この時期は、善光寺町での米価の最高値の時期とほぼ一致する。また、善光寺町での捨て子も天保八年に頻発しており、記録にある一九件のうち一四件がこの年におこっている(小林計一郎『長野市史考』)。また、松代領里郷の倉科村(千曲市)の高地筆吉は、天保七年から九年の凶作・飢饉状況を記した「稀(まれの)違作難渋日記」(『県史』⑦一七五九)に、江戸や松代町・善光寺町などの風聞をつぎのように書き留めている。
「天保七年十二月、江戸からの手紙によれば、銭一〇〇文につき白米四合五勺にのぼり、餓死人が多く、行き倒れ人も多く、御救い小屋が諸方にたった。御堀へ飛びこみ死ぬ人も多い。また、首をくくって死ぬ人は大店(おおだな)でその後始末をしている。毎日、乞食(こじき)などの死人が多い。江戸の御救い小屋に収容された者の出身を聞きただすと、加賀藩のものは二〇〇人余もいたという。松代藩は四〇人余であった」。また松代町では、「天保八年の元旦、矢沢斉五様の御供で出かけたとき、馬喰町(ばくろうまち)入り口に坊主の行き倒れ人がいた。正月二十七日には雨宮(あめのみや)地内唄坂(うたいざか)というところに、男の乞食が行き倒れていた。そのほか、ところどころに行き倒れ人がいたが、その数は分からなかった」。善光寺町では「冬から五月四日までは二〇四人の死人があり、その収容のため穴一つ余分に掘った」という。
高地筆吉はまた同書で、埴科郡倉科村(千曲市)の人びとの悲惨なようすをつぎのように記している。
①夫婦と一一歳・五歳・三歳の男子五人家族の朝の食事は、白米三合余に大豆一合余をいれた粥(かゆ)であった。乳飲み子(ちのみご)の分をまず取りのぞき、そのあとへ大根葉を入れ、さらに大根を切りいれ、それをしゃもじで盛って食べる。②小糠(こぬか)・ふすまなどまでみな食い物にした。天保八年春の一日をかけてわらびを掘りにいきたくさん収穫した。摘み草も妻が近所の妻子といっしょに出かけた。米などを挽(ひ)くとき、臼(うす)に付着する小糠を払いおとして食い物にするほど、たいへん困窮している。わらび餅・いんめい餅・たらのめ餅を食べた。③藁(わら)の粉をたくさん食用とすることができたので、一命を長らえている。藁を車屋で挽かせて藁の粉をつくる。藁の粉は一斗三二文で、その藁の粉一斗に穀物の粉三、四升ほどをまぜて餅やたて粉(こ)にする。④村々には、飢え死にしたものもいる。粗食ばかりしていて、にわかに米を食べて食いあたりした者がいる。また、法事などによばれてたくさん食べて死をまぬがれる者が隣の森村(千曲市)などにもおり、当村などにもそのたぐいの者がいる。⑤世の中がなんとなく険しいので、若者の歌声がない。皆が道を歩くとき、急ぎ足で歩くことができず、そろそろと歩をすすめている。人びとの顔が変色している。なかには顔がふくれたり青くなったりしている者、人の形をしていない者もいる。見ていて気の毒な大人や子どもがたくさんおり、まことに恐ろしく身の毛がよだつほどである。⑥粗食のときや、粥や飯でも少ししか食べなかったときは、道中歩き疲れるので、味噌を曲げ物に入れて歩き、少しずつなめると疲れない。⑦若い者でも粗食していると、体の皮をつまんでも引きたたない。四〇歳前後からの人でごく粗食の人は、言おうとしても言葉にならず、空恐ろしい。⑧山で昼食の盗難が多く、田打ちのさい不始末の人は昼飯を盗まれる。また、大違作なので種(たね)大根がところどころで盗まれる。大麦・粟(あわ)・きびなどの穂が盗難にあう。