村と町の対応

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飢饉のとき、村人はまず自家の貯穀で食べつなぐが、全部を食べ尽くしてしまわず、一部は来年用の種籾として残す必要がある。天明飢饉体験などを生かし、栃(とち)の実・笹の実・胡桃(くるみ)・わらび・あかざ・くずの根など食料となる自然自生(じねんじせい)の備荒食物も採集する。東都(江戸)三橋印のある木版刷の「飢饉せざる心得書」が出回った。類似書をふくめ「飢饉せざる心得書」は、天保四年から五年付けのものが南牧村(大岡村)・田野口村(信更町)・三輪村(三輪)に残されており、ひろく役立てられたと考えられる。これは、「飢饉のときの食事心得書」ともいうべきもので、「米のなかへ蕪菜(かぶらな)または大根の根や葉を入れ、よく炊き、塩を少し入れて食べれば、一、二年のあいだは顔色が変わらず、力も落とさない」とする。また「ねぎ・芋類・芋の葉・大根の干し葉」も備荒食料となるとしている。

 このような対応策と並行して、田畑質入れ、田畑売買、借財、口べらしのための子女の他家奉公などもおこなわれた。借財の具体例を大岡村宮平組でみると、天保五年八月現在、一六軒で合計一三〇両余の借財があり、最高額で二〇両、最少額でも二両の借入れ金があった。こうした個々の家々での対応にはおのずと限界があった。そこに、村と町の共同体の存在意義があった。

 天保四年十月、幕府領栗田(芹田)・長沼(長沼)両村などでは、「まれの違作で惣百姓極々(ごくごく)難渋」におちいったので、「村の役人・重立(おもだち)が相談して、小前百姓まで申しふくめて、軒別に夫食(ふじき)を改めたところ、村内人数にくらべて夫食になる籾・大小豆・粟(あわ)・稗(ひえ)・菜・大根など食料の足しになるものが不足している。そのうえ、収穫した籾をすっても不熟なので砕けてしまうものが多い」として、二納年貢(四分割納の二回目分)の安石代(やすこくだい)(公定石代値段の引き下げ)を願いでている(栗田区有)。このように初納年貢を納めたうえで二納年貢の安石代を求めるとか、または初納・二納をすませたうえで幕府代官所に拝借米を願いでて、その年賦払いを嘆願している例が多い。注目したいことは、「小前百姓にいたるまで申しふくめ」てはいるが、村共同体に個々の家々が所持する穀類を調査する権限があたえられていたことである。また、定免(じょうめん)年貢がおこなわれているところでは、破免(はめん)のうえ検見(けみ)をおこなってほしいと領主役所に願いでている。

 このように、村共同体は、藩や幕府代官所に年貢の破免検見や年賦上納などを嘆願すると同時に、村定めなどの取り決めをおこない、日常生活での倹約を励行する場合が多かった。天保四年八月、幕府領と松代領の分け郷である水内郡千田村では、諸作大不作につき両領の村役人・重立が打ち寄って、つぎのような「倹約村定め帳」を作成している。①公儀法度(こうぎはっと)は堅く守ること。②村では樽(たる)酒は無用である。③諸振る舞いは無用である。④仏事・法事などのときは、菩提寺(ぼだいじ)のみをよぶこと。よんどころない親類は焼香のみ致すこと。遠方の親類は別である。⑤不幸のときは、よんどころない親類のみが打ち寄って葬式をすませること。⑥婿(むこ)取り・嫁取りのときは、近親のみで祝う。振る舞いは有り合わせの品ですませ、吸い物一つ、取り肴(ざかな)三種類のほかは決して出してはいけない。衣類は婿・嫁は格別であるが、そのほかの者は綿服とする。⑦若者どもは夜遊びをしてはいけない。⑧男女とも農業はもちろん夜なべに精をだすこと。この村定めに、三二人の村人(戸主)全員が署名捺印(しょめいなついん)している(『千田連絡会文書』長野市博寄託)。

 一村ごとの村定めと同時に、数ヵ村が集まっての村定めもある。天保八年二月の松代領北長池・北尾張部(朝陽)、南長池・西尾張部・北高田(古牧)の五ヵ村組合の「取り極め連印帳」(北条共有文書)をみていこう。そこには、「違作につき夫食に差しつかえ候ても、組合村方申しあわせ融通いたし相しのがせ申すべきこと」の文言(もんごん)があり、一村限りでの相互扶助の限界を乗りこえようとする動きがうかがえる。

 つぎに、飢饉に備えて村・町での融通米の売り渡し、村人が持高に応じて穀物を出しあって共同管理する社倉穀などの払い下げ、富裕者が貧者に粥(かゆ)などをほどこす施行(せぎょう)などをみる。天保四年八月、松代紙屋町五人組惣代勝左衛門などは、同町名主にたいし、「当町の源右衛門方に穀屋仲間へ融通した米が少々残っていることを知ったので、源右衛門に販売方を相談したところ、上様の御指示があれば、残米分は売り渡すというので、米売り渡しの執りなし」を願いでている(『県史』⑦一七五二)。また、同町五人組のひとつは、翌五年十月に、「去る秋から違作で諸商売が振るわなく、そのうえ金銭の融通がなく難渋しているので、当五人組のうち三軒は貯穀ができない。あと残りの一軒は一人につき半俵ずつ買い入れて追々積みおくが、余分な買い入れはできないので、よろしく執りなしていただきたい」と貯穀延期の執りなし願いを町名主に提出している(『浦野家文書』長野市博蔵)。

 町方の具体例をもうひとつ、松代領水内郡妻科村後町組(西後町)でみよう。この時期、後町組は善光寺町続き地で善光寺後町と称する場合もあり、また、実質上妻科村から分村していて後町村と称する場合もあった。同七年十月、後町村の四五人は連名で名主深美甚十郎につぎのような一札を出している。「本年は穀物が実らず夫食に差し支えるので、積みいれた囲い穀の三分の一をお下げいただき、残りの三分の二もいただけるようになった。しかし、それにはまず五人組で相談して、寡婦(かふ)や身寄りのない困窮者はまずその大家(おおや)でなるべく面倒をみる。それができない場合は、その者が属する五人組で融通扶助して、来年の穀物の取り入れ時期まで生活が維持できるように取り決めたい」(『大鈴木家文書』)。村共同体としての扶助機能をしめす一例である。

 最後に豪農商の施行をみよう。妻科村後町組では、天保七年秋から米穀値段が追々あがり、乞食(こじき)・「ひにん」が多く餓死したりしたため、粥の施行が、七年十二月から八年四月まで一二〇日間おこなわれた。後町組の四郎左衛門は天保九年正月、「去々(さるさる)秋のまれの違作のさい藩が粥の施行をしたとき、その手助けをしたのは奇特のことである」として、盃(さかずき)と羽織り地一反を拝領している(『大鈴木家文書』)。松代町では、藩や菊屋八田家など豪農商による施行が、つぎのようにおこなわれている(『県史』⑦一七五九)。

○天保七年十月二十七日から十二月上旬まで、伊勢町八田家が施粥(せがゆ)した。もっとも、対象は松代町・松代町外町(ちょうがいまち)の人びとばかりであった。

○殿様より同年十二月一日から施粥があった。鍛冶町諏訪の宮北の練光寺境内でおこなわれた。松代町・松代町外町の人びとへ同心衆などが立ちあって粥を毎日午前八時から一〇時まで出した。米一升に水一斗あまりも入れた粥で、八田家で炊き出しをしたものである。

○殿様から同年十二月二十七日、歳末にあたり白米五合と銭二〇〇文ずつを松代町・松代町外町の難渋者へ下付した。そのかわりこの日から施粥はやめた。しかし、翌年正月四日から施粥が再開された。

○天保八年正月末から二月にかけて、木町升田徳左衛門宅で水のような粥が出された。

 松代町では、八田家・升田家以外にも金銭・食料を町に寄せる者が多数にのぼった。表16によると、天保飢饉でもっとも苦しかった天保八年には、約一〇〇人に達しようとする奇特者が金品をそれぞれの町に寄せ八町の難渋人を救済している。各人の拠出額は多くはないが、相互扶助のあらわれであろう。


表16 天保8年(1837)の松代町町方奇特者