菊屋八田家の施行と飯山米の買いつけ

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飢饉のとき、もっとも即効性のあるのは施行(せぎょう)である。施行は、妻科村後町組(西後町)の大鈴木家でも、また松代町の商家などでもおこなっているが(表16参照)、そのなかでもっとも大規模で何回にもわたっておこなっているのが、松代伊勢町の菊屋八田家(八章三節参照、以下八田家と略称)である。

 天保飢饉後半の山場は、天保七年から同八年にかけてであるが、八田家の粥(かゆ)の施行はこの期に集中する。表17からわかるように、記録に残る八田家の施行は、天保七年十一月から同八年六月にかけておこなわれている。具体例を天保八年正月四日から同月晦日(みそか)までの施行(「御救い粥下され人別覚帳」『松代八田家文書』国立史料館蔵)でみていこう。正月四日の記事をみると、つぎのようになっている。


表17 伊勢町八田家の施行

   正月四日

      職方  宮入要吉

      御町方 栗林庄右衛門

  ■ ■■■■■■(中略)▼▼■▼▼■▼■●▼●▼

  〆(しめ)六百九人

     内訳

    男八十一人

    女二百三十三人

    子供二百九十五人

    小以(こい)(小計)

    門外ニテ

    三十六人 非人共

  都合六百四十五人

 ●印は男性、▼印は女性、■印は子どもへの施行をあらわす。職(しょく)奉行所役人宮入要吉と町奉行所役人栗林庄右衛門の立ちあいのもと、一人ひとり、男か女か子どもかをチェックして人別覚え帳に●▼■と記入していく。正月四日には、男八一人、女二三三人、子ども二九五人、別に門外で「ひにん」三六人、合計で六四五人に施行した。このようにして、正月晦日(みそか)まで毎日施行がおこなわれ、この期間だけで合計三万三二〇一人、門外で「ひにん」一〇六一人に施行した。後まわしにされる「ひにん」のなかには、せっかく一日待っていたけれども、粥が払底(ふってい)してしまって手元に渡らなかったことが、この期間に三回あった。

 天保八年二月一日から二十九日までの施行では、十二日と十六日の記事に「雪降り」とあり、雪空のもとで列をつくって待つ人びとが想像される。このときは、合計四万九三〇四人が施行をうけている(『松代八田家文書』国立史料館蔵)。

 施行をうけられるのは、松代八町や町外町(ちょうがいまち)の住民に限られ、夫食(ふじき)拝借願いを町役人に提出して難渋人と認定され、町役人から証明の切手の交付をうけて持参した人びとであったと考えられる。

 八田家の施行粥は、一人あたりでは少量であったと思われるが、約一ヵ月間にわたる施行は万単位の人におよび、しかも何回にもわたっておこなわれているので、粥をつくるための八田家の米と薪(たきぎ)の消費量は大きかった。薪の消費量をみると、天保七年十一月二十九日から八年八月までの粥の炊き出しに、槙(まき)六九九駄七束を消費している。代金にすると金一七両二分(ぶ)と銀四三匁八分(ふん)四厘(銭にして五貫二〇〇文)であった(「御救粥焼(たき)槙買入れ調元帳」『松代八田家文書』国立史料館蔵)。

 八田家の宝暦期(一七五一~六四)の奉公人は、年間を通じて三五人から四〇人ほどと多かったが、天保四年(一八三三)・同七年は一一人にまで減少しているところからみて(八章三節一項参照)、この期の八田家の経営と家計はかならずしも良好とは思えない。八田家の施行には、おそらく松代藩からの要請となんらかのかたちで藩からの財政支援があったと考えられる。

 飢饉時での即効性という観点から考えると、施行と並んでもうひとつ効果のある飢饉対策は、飯山米など米どころの米穀を大量に買いつけ、困窮する人びとに安売りすることであった。天保七年十月、松代町の穀屋行事と八町役人は、買入資金をかきあつめ、そこに八田家で工面した無利息の五〇〇両を足して元金にし、飯山表(おもて)から籾一〇〇〇俵と米九〇俵を買いいれた。そのさい、米穀の運搬や買い入れ代金の取り計らい方法や米穀の割りふり方など御融通米の後処理(あとしょり)につき八田家に大きく依存した(『市誌』⑬四一〇)。また、同年同月、松代八町役人は、八田家が飯山表で買いつけた籾七〇俵を融通してもらい、一〇〇文につき米六合の所定の安値で売ることを八田家に約束している(『市誌』⑬四〇九)。