天保三年は当初冷涼な気候であったが、日を追って照りつづき飲み水が絶えるほど旱魃(かんばつ)になった。松代藩では、先例にしたがって、雨乞いをするよう領内の寺社・修験(しゅげん)に申しつけた。同時に、つぎの村々のグループの高峰で曇天(どんてん)にいっせいに焚(た)き火をおこなわせ降雨を待った。この年、七月十八日と二十七日の二回雨乞いが実施されているが、二十七日の場合をみよう(以下、とくに断わりのない限りすべて天保三年から八年「御勘定所元〆日記」『松代真田家文書』国立史料館蔵)。
埴科郡関屋・平林(松代町豊栄)、長礼(ながれ)・加賀井(松代町東条)など一三ヵ村グループでは立石辺り(松代町東条)で、埴科郡西条(松代町西条)・土口(千曲市)・岩野(松代町)など九ヵ村グループでは畑ヶ辺辺りで、水内郡山田中・吉窪(よしくぼ)・深沢(小田切)など九ヵ村グループでは小野平辺り(小田切)で、更級郡有旅(うたび)・山布施(篠ノ井)、田野口・安庭(信更町)など一一ヵ村グループでは、茶臼(ちゃうす)山辺り(篠ノ井)で、それぞれ二五〇人から二六〇人の人足を集めていっせいに焚き火をおこなわせた。松代藩は一ヵ所に金一分以上の金子(きんす)を下付した。
翌天保四年六月になると、気温が低く打ちつづく降雨で凶作の状況が鮮明になり、松代藩では真田家の祈願所である真言密教の開善寺に五穀成就の祈祷(きとう)をおこなわせ、村々へ御札(おふだ)三〇七枚を郡奉行配下の五人の代官をとおして配布した。九月には七日から三日間、八田家に「御払い米申し渡し」をおこない、四ッ時(午前一〇時ころ)から七ッ時(午後四時ころ)まで難渋の者に売り渡させている。このときの払い米価格は、一〇〇文につき玄米一升二合五勺で、一人あたり二〇〇文を限度とした。払い米の対象となったのは、松代八町と町外町(ちょうがいまち)の難渋人で、三日間で合計三九六五人であった。払い米合計額は、玄米九九石一斗五升五合で、銭七九三貫文であった。売り上げ代金は後日、八田家が藩に上納した(『松代八田家文書』国立史料館蔵)。翌十月には、「違作米穀払底一統不穏(ふっていいっとうふおん)につき」菓子類・飴(あめ)・饅頭(まんじゅう)の製造が差し止められた。また、酒造も新米はもちろん古米も酒造株の三分の二のみの製造に限定された。同月には、米の穀留め令、翌五年六月には麦の穀留め令が出された。
なお、天保四年十一月ころから同五年にかけて集中的に、市域内外の一部の村や領民から窮民救済のための献金や囲い穀・融通穀の申し出があった。具体例をいくつかみていこう。同四年十一月には、上横田村(篠ノ井)が籾一〇俵、仁礼(にれ)村(須坂市)清八郎が金五〇両、原村(川中島町)半之助ら三人が融通穀三〇〇俵、北郷村(浅川)静左衛門らが金一三両余を差しだしている。翌十二月には、原村の帳下(ちょうした)身分の穀商吉蔵が金七両を差しだし、川中島穀商売の八一人が仲間規定で、冥加金を年々金一〇両ずつ差しだすことをとりきめている。
このような動向は、天保五年になってからもつづいた。六月、須坂村(千曲市)の帯刀御免の清右衛門五〇〇俵、上小島田(かみおしまだ)村(更北小島田町)の帯刀御免の市左衛門五〇〇俵、小市(こいち)村(安茂里)五右衛門の五〇〇俵、吉田村(吉田)の帯刀御免の太兵衛が一〇〇〇俵など大量の囲い穀を申しでて、褒賞として宗門人別帳に苗字を記載することを許されている。また、米穀の積み入れを申しでている村々は同年十二月現在で一一〇ヵ村にのぼった。
天保五年は凶作というほどではなく、六年正月には菓子商売の差し止めは解除されたが、六年はまた凶作の様相を示しはじめていた。
これより先文政八年(一八二五)の凶作をきっかけにして、八代藩主幸貫(ゆきつら)の社倉(しゃそう)囲い米の目論見書(もくろみしょ)が触れだされていた。社倉の整備は村によって遅速はあったがしだいに進み、天保飢饉のとき生かされた。天保五年三月、有旅(うたび)村(篠ノ井)では、二二人ほどの難渋人が村の社倉穀の払い下げを求めた(『県史』⑦一七五五)。また、同六年十二月、小松原村(篠ノ井)など二一ヵ村では社倉郷倉の自普請にとりかかっている。
翌天保七年になると、同四年を上回るような凶作になった。松代藩では同年八月、火付け・盗賊の類を取り締まっている(『市誌』⑬四〇八)。また同月、川中島平の穀屋が所有している穀物を取り調べてその量を把握し、飢饉に備えた(『市誌』⑬四〇八)。翌九月には、難渋人別の取調べ触れを出し、その救済に乗りだした。翌月には、松代八町の借地・借家の六五軒と町外町(ちょうがいまち)の一五二軒のものに米を支給するので、藩の倉へ出頭するよう触れを出している。家中にたいしても同年十月十一日から二十九日まで、勝手方家老矢沢監物(けんもつ)(頼尭)配下の郡奉行兼町奉行寺内多宮の内意をうけて、八田家が払い米をおこなった。一人につき二斗八升入りの玄米一俵を金二分二朱と銀七分八厘三毛で払い下げ、総額で金九七両と銀五匁七分九厘九毛におよんだ。このとき、対象となった家中は、全部で一五〇人にのぼった(『松代八田家文書』国立史料館蔵)。一五〇人の内訳は、一二〇石の知行取りや、籾五斗入り五〇俵と中白米(ちゅうはくまい)三人扶持の蔵米(くらまい)取りや、一三〇石の蔵米取りなどさまざまであった。
翌天保八年四月には、「飢饉疫流行時薬方(えきはやりどきやくほう)家中触れ」(『県史』⑦一七六一)を出し、飢饉のとき流行する疫病にたいする処方箋(しょほうせん)を家中に示している。①時疫にはよく炒(い)った大粒の黒大豆一合と甘草(かんぞう)一匁を水にて煎(せん)じだしときどき飲む。②時疫には茗荷(みょうが)の根と葉を突き砕いて汁をとり、多く飲む。③食物にあたって苦しむときは、大麦の粉をこうばしく炒って、白湯(はくとう)にてたびたび飲む、など一一項目にわたる心得である。
すでにみてきたように、松代八町や町外町の住人にたいする八田家をとおしての施粥(せがゆ)は、同七年から八年にかけて集中し、延べ二九万人余に達したが(表17参照)、松代領山中の鬼無里村一ノ瀬組(鬼無里村)の飢饉は深刻で、同村での施粥が同八年正月おこなわれた。このときは、米五升・稗(ひえ)五升・水八斗・塩一升の粥で、一人あたり二合入りの柄杓(ひしゃく)で一ぱいずつほどこしている。このとき施行をうけたものは一二六人であった(『県史』⑦一七六〇)。
天保八年七月になると、この年の作柄が良好であることがはっきりしてきた。「当秋作宜(よろ)しき趣につき大検見(おおけみ)回村見合わせ」となり、また松代伊勢町八田家の伝兵衛は、「追々稲作出来方宜しく相なり、人気(じんき)穏やかにまかりなり」として酒造を願いでている。鬼無里村では同年十月、「御重恩(ごちょうおん)により難渋凌(しの)ぎにつき蕎麦(そば)を献上」した。
つぎに善光寺領をみよう。天保三年閏(うるう)十一月、善光寺山門に張り札があり、不穏な動きがあった。翌四年八月、善光寺大勧進別当は、江戸から帰ると、「穀物払底にて一党(統)不穏に候」として、一〇〇文につき米を七合で売るように穀屋に申しつけたが、売り切れたため一〇〇文につき六合で売るように命じている(「小野家日記」)。つづいて、「松代藩から二斗八升入りで三〇〇俵を借米し、御救い米を難渋者へ玄米一〇〇文につき一升相場で、一人一日に二合ずつ売り渡した」(『市誌』⑬四〇五)。この年十一月には、来春の米不足に備えて、善光寺大勧進は町の有力者につぎのように米の買い入れを申しつけている。大門町の増屋太七・菱屋(ひしや)伊助に籾七五俵、同町小妻屋喜八・北野屋久八・煙草屋平治・高田屋茂兵衛の四人に五〇俵、同町の近江(おうみ)屋九兵衛・池田屋六右衛門・駿河(するが)屋小右衛門に三〇俵、増屋太吉に一五俵などである。
松代領同様、天保五、六年は、飢饉も一休みという状況であったが、同七年はまたまた大飢饉となり、寺領では、その対策として同年十月、越後高田藩から米五〇〇駄の買い入れをおこなった(西ノ門町 藤井一章蔵)。翌十一月には、善光寺大勧進で高田領愛宕(あたご)の宝持院と五智(ごち)の国分寺(上越市)から「如来御頼みにつき御供え米と大勧進台所の御手充て米」として、五斗入り玄米二〇〇俵を買いうけている(『今井家文書』県立歴史館蔵)。さらに同九年正月、天保飢饉の最終年にあたる年であるが、松代藩から五〇〇両分を買いいれている。
寺領では酒造制限もおこなわれていた。天保四年八月、西之門町の伊右衛門は、町年寄月番の水科(みずしな)五郎右衛門宅で、当年は稲の出来具合いが宜しくないので、新酒の製造は追って沙汰(さた)のあるまで差し控えるよう申し渡され、その請書を提出している。同八年は飢饉がようやく終結に向かおうとする年であったが、十二月伊右衛門は総石高七二石の酒造を許可されている(『県史』②一二九六)。