地震災害とおもな地震

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地震は地震動と地殻変動によって、地域社会に大きな影響をおよぼす。地殻変動は活断層が原因である。地震にともなう現象としては山崩れ・地割れ・地すべり・土石流・噴砂などがある。このほかに地鳴り、発光現象、地下水や温泉の変化などがある。二次災害として山崩れが川を堰(せ)きとめ、湖をつくり後日に湖が決壊して、下流域に水害をもたらすことがある。また、地震動により建造物が倒壊して居住者を死傷させ、器物の転倒や落下も死傷や火災の原因となる。地震のときには同時に多発的に出火し、消火の対応も弱くなっているので大火災になりやすい。火災が地震の被害を大きくした事例は多い。また、道路・用水・農地の破壊は、交通・食糧・物資の供給にも支障をもたらす。地震災害は、被災した人びとの心理的・精神的な痛手というメンタルな面での被害も忘れてはいけない。このように、地震の災害が生じるとその社会的影響はとくに大きいのである。

 長野市域には、地震の原因となる活断層が多くみられ、長野盆地西縁活断層系といわれ、南端は長野市篠ノ井小松原の小松原断層から北端の飯山市飯山の長峰断層までおもな断層が九つ判明している(図4)。市域の被害地震は、図4からわかるように、いわゆる「信濃川地震帯」でほとんど発生している。江戸時代の市域で発生した最大の被害地震は、弘化四年(一八四七)三月二十四日発生の善光寺地震である。市域では、表18から地震が二〇年に一度の割りで発生していたことがうかがえる。しかし、記録されない、資料が残らない地震も考えられ、じっさいはもっと多かったと考えられる。近年の地震学では、善光寺地震を起こした活断層の周期は約九五〇年という見解が発表されている。いずれにしても市域は地震の巣といわれるなど、今後も地震に関心をもつことは肝要である。


図4 長野盆地西縁活断層
(信濃毎日新聞社編『信州の活断層を歩く』より)


表18 長野市域の被害地震

 長野市域のおもな被害地震として、宝永四年(一七〇七)十月四日の「宝永地震」があるので、その概要からみていく。この地震は、わが国最大の地震といわれ、被害は広範囲におよび全国で死者約二万人といわれている。東海地方南西部・紀伊半島・伊勢湾で被害が大きかった。信濃国では松本城下で潰れ家(つぶれや)三七〇軒、飯田藩で死者五人、潰れ家一五〇軒の被害があった。市域の松代城下では昼八ッ時(午後二時ころ)に地震が起こり、五日まで余震がつづき、肴(さかな)町・中町で町家など一一三軒が潰れる被害が出た。

 寛延四年(宝暦元年、一七五一)四月二十六日朝七ッ時(午前四時ごろ)に起きた「越後地震」は、高田藩で死者一一二八人の大きな被害が出た。松代城下では、潰れ家が百姓家四〇軒、町家五軒生じた。松代城の被害は本丸・二の丸・大手櫓(やぐら)の石垣が四四間余り崩れたとある。越後に近い下駒沢村(古里)では、六九軒のうち潰れ家五〇軒、半潰れ一五軒と壊滅的な被害が出た。人的被害として松代領で死者一二人、怪我人四二人であった。藩主の真田信安は復旧工事費として、幕府から三〇〇〇両を拝借し、一〇年賦で返済することにしている。

 弘化四年(一八四七)三月二十四日の善光寺地震については後述するが、江戸時代の長野市域で起きた地震のなかで善光寺地震は最大の被害をもたらした。安政元年(一八五四)十一月四日、朝五ッ時(午前八時ころ)過ぎ、長野市域で地震が起きた。「安政東海地震」である。東海地方南西部から近畿地方にかけて震動が強く、各地に被害が出た。とくに沼津(静岡県沼津市)から伊勢湾にかけての沿岸地域での被害が大きかった。長野市域では松代城下での被害が大きく、家中分として潰れ家二九軒、半潰れ大破一四四軒、町方分として潰れ家一〇三軒、半潰れ二〇二軒で、中町・肴町・田町・鍛冶(かじ)町では被害が大きく、人的被害も死者五人、怪我人一八人が出た。村方分は潰れ家二〇軒、半潰れ二六〇軒、怪我人一一人と死者はなかったようである。藩は中町に救恤所(きゅうじゅつしょ)を設置し、金銭・食糧をあたえ救済している。真田家の菩提寺(ぼだいじ)である長国寺は、本堂・庫裏(くり)が破損するなど被害が大きく、藩は寺僧へ五〇人前炊き出しの救済をしている。また、この地震のときに月番家老であった河原綱徳(かわらつなのり)は「虫倉後記」のなかで「四日朝五ッ時過ぎ、大地震ありし、過ぎし丁未(ひのとひつじ)(弘化四年)の大震(おおない)に引きくらべては、其の半ばに至らざりし様に思われし」とのべている。その理由として「その時(善光寺地震)は、居間向より表の方まで障子ははづれ倒れしが、こたびははづれざりし」と、善光寺地震の体験を生かし冷静な観察をしている。

 安政五年(一八五八)三月十日辰(たつ)の刻(午前八時ころ)過ぎから長野市域で地震があり、松代城下で半潰れ・大破、在方では潰れ家・半潰れ・怪我人が出た。山中(さんちゅう)筋では山抜け・崩壊・地裂が生じ、また旭山で崩壊が少しあった。善光寺町では、暮六ッ時(午後六時ころ)に強い揺れがあり、人びとが家屋から逃げだすほどであった。人的被害については史料が見えず不明である。この地震について、三月二十三日に松代藩から幕府御用番老中久世大和守広周(くぜやまとのかみひろちか)へ届け書が出されている。