善光寺地震の呼称については、当時の文献に「信濃大地震」、「信越大地震」、年号から「弘化大地震」などと記録されている。現在は「善光寺地震」の呼称が広く知られ一般化している。
善光寺地震の発生は、弘化四年三月二十四日亥(い)の刻(午後一〇時ころ)であった。震源位置は長野市浅川付近かと推定されているが、多重震源と考えられる。地震規模はマグニチュード七・四とされている(『理科年表』二〇〇二)。これは当時の文献や被害状況から推定されたものである。マグニチュード七・四の地震規模は、長野県内で発生した地震のなかで最大規模である。また、典型的な内陸直下型地震でもあった。地震による被害地域は、信濃国北部から越後国西部におよび、国内では飯山市域から長野市域、上田市域、松本市域、大町市域と広範囲にわたって地震災害がおきた。そのなかでも長野市域では、震度七の激震、飯山市域でも震度六の震動が推定されている。また、水内・更級両郡の西山地域で地震による山崩れ・地滑りの被害が大きかったことは、善光寺地震の特徴のひとつである。善光寺地震が大災害となった事情には、地震の発生が夜間であったこと、七年に一度の善光寺御開帳中で、全国、近在から大勢の参詣者が善光寺町や稲荷山宿(千曲市)などで宿泊していたこと、火災の発生、延焼でさらに被害が拡大したことなどがあり、結果として人的被害が甚大となった。
また、虚空蔵(こくぞう)山(岩倉山)の崩壊により、犀川が堰(せ)きとめられ、その後に決壊し大洪水となり、下流域の田畑・用水・家屋に大きな被害をもたらす水害となった。このように善光寺地震は、震動・火災・地滑り・山崩れ・水害と、内陸地域で地震が発生したさいに起こるさまざまな災害をひきおこし、長野市域を襲った。つぎに善光寺地震の地震災害を具体的にみていくことにする。