善光寺町の被害

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善光寺大地震の前兆は三月二十日すぎからのときどきの小地震であった。地震当日、三月二十四日の善光寺町は、三月十日から始まった善光寺開帳で、夜になっても善光寺境内や町内は諸国や近在からの参拝者でにぎわっており、例年にくらべて善光寺町の人口はふくれあがり、当夜は町の旅籠(はたご)などに止宿していた人は七〇〇〇人から八〇〇〇人といわれている。また、地震の発生が夜一〇時ころと夜間であった点も被害が大きくなった要因の一つである。

 善光寺の被害状況は、本堂が倒壊を免れたが「内陣造作等大破」と幕府あての松代藩御届け書にあり、本堂内部が震動でかなりの破損をうけたことがうかがえる。当夜、本堂でおこもりしていた数百人の人びとは本堂裏へ避難し無事であったようである。また、「風は未申(ひつじさる)(南西)の方より吹立て、如来・御本堂すでに危うく見え候処、御屋根の上、三門之屋根の上、数多(あまた)の人影あらわれ、八方へ駆け廻り飛び火を防ぎ候」とあり(『県史⑦』二〇三三)、人びとの懸命な消火活動もあり本堂は無事残った。ほかに鐘楼が無事、山門・経蔵が小破とある。しかし、他の建物などは、大本願「残らず焼失」、大勧進は万善堂など七ヵ所大破、寺中の四六院坊すべてが焼失とあり、倒壊・火災で壊滅的な被害状況であった。周辺の武井神社は焼失、湯福(ゆぶく)神社は倒壊した。善光寺如来は旧市営球場近くの箱清水村(箱清水)地蔵畑に仮堂を建て、五月十三日に大勧進万善堂へ移るまでの五三日間、そこに安置された。その仮堂跡に地蔵菩薩像が建立されている。


写真6 善光寺境内の災害図
  (永井幸一『地震後世俗語之種』真田宝物館蔵)

 善光寺町での町家(まちや)の被害は、松代藩の七月九日御届け書によると、焼失二一九四軒、倒壊一五六軒、倒壊しなかった町家一四二軒と、町家のおよそ九割が焼失・倒壊した。焼失した町家のほとんどは倒壊後焼失したとみられる。

 善光寺町の町続きの村々の被害をみると、松代藩預り所権堂村(鶴賀権堂町)は、善光寺町の花街として発展していたが、倒壊したうえに善光寺町の火災が延焼し、焼失は二七四軒と家屋の約九割の被害であった。妻科村石堂組(南・北石堂町)の南につづく栗田村(芹田)は家屋の倒壊もあったが、死者五人はすべて善光寺町へ出かけていた者の被災であり、被害が軽い。越後椎谷(しいや)領の問御所村(鶴賀問御所町)では家屋の約三割が倒壊したが、六川陣屋(小布施町)から救援に駆けつけた代官寺島善兵衛が問御所村との境である権堂村の家屋をとりこわして延焼を防ぎ、火災を村の北端で食いとめたことにより、倒壊の被害のみですんだ。死者も一人と少なく、地震後の対応の違いが火災被害の有無の違いとなった。

 このように大きな被害をもたらした火災は二十六日の昼ごろようやく鎮火した。現在と異なり当時は木造家屋だけである。木造家屋のほとんどが瞬時に倒壊したものと思われ、燃えやすい木造家屋の密集している善光寺町で、初期消火がほとんどできず、鐘鋳堰(かないせぎ)などの用水が地震の影響で流水が十分でなかったこともあって、延焼も防げなかったことが被害を大きくした。