善光寺町の地震による人的被害は、「松代藩御届け書」によると、死者一四五七人(男六九三人・女七六四人)、止宿者の死者が一〇二九人とあるので、およそ二五〇〇人余が犠牲となったと思われるが、ほかにもいくつか数値があり死者の数値は確定できない。しかし、おおよそ善光寺町の住民の人的被害は、住民の約二割が犠牲になったと考えられる。
また、諸国・近在などからの参拝者の宿泊状況をみると、たとえば江戸からきた町人の藤次郎と平蔵は旅籠屋の綿屋に宿泊するが、「表二階の十二畳間の座敷に相客ともに拾八人、壱所に相成り、甚だ込み合い候に付き(中略)一同押し合い臥(ふ)せ居り候」とあり(『増訂大日本地震史料』③)、綿屋だけで二百五、六十人は宿泊していた。このように善光寺町の宿舎はどこも混雑し、かなり詰めこんだ宿泊状態であったようである。旅籠屋などでの死者については、藤屋・いかりや・嶋田屋・中田屋・紀伊国屋・市川屋で六九〇人余の犠牲者が出たとある。また、院坊の被害状況を正信坊の「当院止宿姓名控」(『市誌研究ながの』一・二号)という宿帳でみると、地震当日は正信坊に七組三三人の宿泊者があった。そのうち死者は二六人(男一二・女一四)で生存七人、と約八割が死亡しており、なかには全滅したグループもあり、止宿者の被害が大きいことがうかがえる。開帳による参拝者の多さが、善光寺町での人的被害をより大きくしたのである。
善光寺町の各町内の人的被害は、大門町二七九人、西町二一五人、横町二〇六人と多く、ついで桜小路(桜枝町)一四〇人、岩石(がんぜき)町八八人、新町(しんまち)八八人であった。とくに大門町・岩石町・新町は住民の約四割が犠牲となっている。これらの各町は傾斜地に立地しており、倒壊が多く、その後の延焼もはげしくて犠牲が大きくなったものと思われる。しかし、横沢町は居家の約四割が倒壊したが、死者は四四人と少ない。このように善光寺町の人的被害は各町で違いがでている。被害の具体的な状況は永井幸一『地震後世俗語之種』からうかがうことができ、倒壊による圧死、火災での焼死が死因であることがわかる。