松代藩の善光寺地震による被害は、山間地での山崩れや地すべり、犀川の堰き止めによる湛水(たんすい)、その後の決壊による水害と、震災による倒壊、火災と多様な様相がみられ被害も甚大であった。なかでも山中(さんちゅう)(松代藩の行政区分の名称。松代藩では領内を山中と里郷に大別していた)とよばれる西部山間地における山崩れは最大の特徴である。最初に山中の山崩れ、地すべりなどの被害をみていくことにする。
この被害は四万ヵ所余りと届けだされているが、最大のものは虚空蔵(こくぞう)山(標高七六四メートル)の崩落であった。虚空蔵山は、長野市信更町山平林に位置し、善光寺地震により山の南西部分が崩れ岩倉・孫瀬の二集落をまきこんだものが最大規模の崩落で、この崩落の土砂がおよそ高さ一〇〇メートル、幅六〇メートル、長さ五〇〇メートルの土堤を形づくり、二〇日間にわたって犀川を堰きとめ、湖をつくったのである。もうひとつの崩落はそれより北のほうで、藤倉・古宿の二村を埋めたものである。堰き止め湖は水内・更級両郡から上流は筑摩郡押野(明科町)にまでおよび、新町(しんまち)村(信州新町)など二一ヵ村が水没し、堰き止め湖の湖水面の標高は四六八・五メートルとなった。
堰き止め湖の水は、四月十日未明堆積した土砂の隙間から流出しはじめ、十三日に一気に押しだした。犀口(さいぐち)の小市村(安茂里)で水かさ六丈六尺(約二〇メートル)もあった。激流は、堆積した土砂もろとも、川中島一帯(犀川扇状地)をおそった。激しい水流は大きな岩石をも押しだし、今もその岩石をいくつか川中島の各地区で見ることができる。犀口から二キロメートルある四ッ屋村(川中島町)中沢家の庭には、長径三・五メートル、短径二・二五メートル、高さ二・一五メートルの大きな岩石があり、洪水の激しさを示す。この水が流れこんだ千曲川は水かさが増し、大室村(松代町)で二・一メートル増水という記録がある。また押しだされた土砂は、川中島平の耕地、用水路などに土砂として残り、四ッ屋村の西辺では土砂の堆積が一・五メートルといわれ、復旧に大きな障害となった。その後に処理された土砂の一部は、現在も「砂山」などとよばれ川中島平でいくつか見られる。洪水は下流の高井・水内両郡の千曲川沿いの村々におよび、田畑冠水、家屋の流失などの水災をもたらした。しかし、水死者が少なかった点も特徴のひとつで、これは松代藩をはじめ諸領が対応策をとり、村々でも湖水決壊に備えて高台へ避難するなど、適切な対処をしていたからである。
また、強い震動で「往来道筋地裂け抜け崩れ」として、延べ一六万四七四一間(二九六・五キロメートル)余の道路が通行不能となり、河川の橋は三七三ヵ所が流失した。これらの被害は参勤交替、問屋の継ぎ送り、物資の移動、人びとの生活にも多大の被害をおよぼした。山崩れは大量の土砂が河川や湖などに流れこみ、また土石流(山津波)となり村々を襲い被害をもたらすが、善光寺地震では善光寺町の北部で大規模なものが発生している。飯山領の吉村(若槻)では、村の北西にあたる字鬼岩岸、字鬼岩の山が崩落し、土砂が隈取(くまとり)川に沿って押しだし、村の西方にあった用水池に流れこみその土堤を破り土石流となり、村の中央へ押しだし、人的損失一五五人、土石流で田畑の約五割が被害をうけている。また、浅川上流では、飯縄山麓(いいずなさんろく)にあった用水池(論電ケ池・ナギ窪池など)が決壊し、洪水となり、崩壊した土砂をまきこんで土石流となり、下流の真光寺村(浅川)をおそった。一八人が土砂の下になった。この土砂の押し出し状況は「信州地震大絵図」(口絵)で見ることができる。