善光寺地震における松代領の農業の被害についてみると、全体で高七万一六九〇石余の被害であり、田畑の約六割が被害をうけたことになる。地震による直接の被害は、一五一ヵ村、高三万二八五〇石余で、そのうち田方が約三割、畑方が約七割と(『新収日本地震史料』⑤)、地震による直接被害は畑地の被害が大きい。洪水による被害では八〇ヵ村で高三万八八四〇石余であり、七割が水田、約三割が畑地となっている。これは水害のおもな地域が水田の多い川中島平であり、畑地の多い西山では地震による耕地の崩落などが多かったのがこの違いとなった要因であろう。松代領全体としては、二三〇ヵ村が被害をうけ、田方の被害が畑方より大きかったことがわかる。
また、用水関係の被害は、地震の時期が春先であり苗代、田植えなどにも影響がおよぶことになった。被害は全体で二七〇ヵ所余で、地震と洪水による用水の土堤の大破や抜け、堰の大破や砂泥入りなどが一二万間余(約二二〇キロメートル)、約八割が地震による破損などである。また、用水堰の揚げ口、水門の樋(とい)大破などの被害は二四ヵ所あり、こちらは約六割が洪水での被害となっている。犀口の用水堰取り入れ口は、地震で地盤が隆起したため、上堰は二〇〇メートル、中堰は一八〇メートル、取り入れ口を犀川上流に移動しなければならなかった。このように松代領は耕地の被害と用水堰などの破損で農業生産基盤がダメージをうけ、復興が大きな課題となり、藩財政にも重い負担となっていく。
松代城は櫓(やぐら)・番所・米蔵が各一棟潰れ、囲い塀が本丸の八〇間をはじめとして二一五間余倒れる被害がでた。石垣などは崩落しなかった。飯山城は四月十三日の届け書によると「本丸 渡り櫓一ヵ所潰れ、冠木門(かぶきもん)一ヶ所潰れ、石垣二ヵ所崩れ、囲い塀残らず倒れ、土蔵一棟潰れ、二重櫓一ヶ所損す」とある。両者を比較すると、松代城は被害が軽微であったといえる。
松代領の「居家(おりや)」の被害総数は一万六六六一軒、うち潰れが九五五〇軒と約六割であった(表19)。潰れ家屋のうち「家中」は三八軒で、武家屋敷の全壊被害は少ない。
「城下町」は、町方被害総数の約四割にあたる一七五軒が全壊である。「在方」は潰れが九三三七軒と約六割が全壊となっている。とくに家屋の被害は城下町の被害にくらべると在方の被害が大きいことがうかがえる。逆に城下の被害が少ない。この家屋の被害の違いには、地震の震度の地域的な違い、家屋の構造的な違い、家屋の建築資材の質的な違いなどが考えられる。とくに城下では武家屋敷の火災による焼失家屋がなく、飯山城下とは家屋の被害の違いがみられる。「家中」の被害が少ないのは、武家屋敷の敷地の広さも関係があると思われるが、地震発生のさいの藩による防火への指示の徹底も大きな効果があったと考えられる。また、土蔵の被害は潰れが土蔵被害総数の一割もなく、居家の四割を大きく下回っている。これは出入り口と窓以外はすべて木材と土で固められた壁であることをはじめ、構造的に耐震性が強いことを示していよう。全体として、武家は「居家・土蔵・物置」では、町方・在方と比較して被害が一番軽く、町方や在方とはうけるダメージが異なったと思われる。『むしくら日記』には「御城下火災なきは実に、君上の御恩によれり」とあり、武家が災害をどのように受けとめていたかの一端がうかがえる。