善光寺地震の人的被害の数値については多くのデータがあるが、ここでは松代藩が七月九日に幕府へ報告した「御届け書」の数値にもとづいて松代領をみていく。松代領の地震での人的被害は、死者二六九五人、怪我人二三七九人、計五〇七四人と、領内の約四パーセントが人的被害をうけていたことになる(表20)。死者の約九割は地震のときの圧死である。また、山抜けなどで死体不明者が四四四人もあり、山中での崩落などの被害が大きく、救助活動が困難であったことがうかがわれる。また、死者については、家中分がなく、武家は犠牲者がなかったということになる。町方でも死者は三二人と少なく、松代藩では人的被害においても、城下の町人・武家と村の百姓とのあいだに被害の違いが生じている。男女別では、死者は女一四〇一人、男一二九四人と女子が多く、災害において弱者が犠牲となるという傾向がみてとれる。怪我人も同じく女子が多く負傷している。
ここまで善光寺町・松代領の三月二十四日の本震の被害を中心にみてきたが、本震後も余震がひんぱんにつづく。十月二十二日の余震では「朝たびたび寄(揺)り申し候、(中略)五ッ半時頃大寄りこれあり、この大寄りの儀は、三月二十四日夕ならびに八月二十二日夕の大寄り相違これなし、夜毎引きつづき寄り申し候、皆々家宅より飛び出し、あきれ果て申し候」とあり、人びとの生活に恐怖感や不安感をあたえつづけたのである。地震の被害という場合、人的被害や物的被害にとどまらず、心理的・精神的な痛手の大きさ、それによる日常生活への圧迫など見逃してはならない(古川貞雄「善光寺地震余震記録」)。