善光寺地震は震災・火災・水災と被害は多様であり、被災者も多く、家や財産を失い、食事にもこと欠く人たちが多くいた。松代領・善光寺領・幕府領の救済策をみると、①被災者への炊き出し(握り飯・粥(かゆ))の実施、②負傷者の手当て、被災地への医師の派遣、③物価、職人の手間賃の値上げ禁止、④御救い小屋の設置、⑤御救い米の下付、⑥救済金の下付など、生活再建のためにきめこまかく多様な施策を実施している。災害から生き残った人びとが生きのびられるように、まず食料の供給が応急策として実施された。
松代藩では御救い小屋を、小松原(篠ノ井)・川田(若穂)・八幡原(はちまんばら)(更北小島田町)・北高田(古牧)の四ヵ所に設置し、三月二十四日から二十八日までの五日間、炊き出しをおこなった。「極(ごく)難渋者」へは、炊き出しを一〇日間延長して救済している。善光寺では三月二十五日から晦日(みそか)まで「御救い粥」が、参詣人・旅人へもほどこされている。また、「二十六日、軒別に洗い米二升ずつ下さる」(『増訂大日本地震史料』③)とあり、「洗い米」で下付するという飲用水不足への配慮がなされている。松代藩の震災中の炊き出しの賄い数は、一二万六八〇〇食、米七一五五俵(『新収日本地震史料』⑤)とあり、大量の米穀が緊急措置として人びとにあたえられ、人心を安定させ、混乱を防いでいることがわかる。また、このような公的扶助だけでなく、米価の制限、米の廉売(れんばい)など、主食である米について応急の対策を実施している。
また、施行(せぎょう)とよばれる、富裕な人びとや村などからの義捐(ぎえん)金や救援米の献上が数多くみられる。救済の実態の一端をみると、後町村(西後町)の四郎左衛門は三月に非常用として貯えてきた籾一〇〇俵を献上した(『大鈴木家文書』)。また、「松代領八丁村(須坂市八町)の甚五郎と申す者、御堂(善光寺)前に出張(でば)り、三日の間、米穀安値段で売り渡し」た(『増訂大日本地震史料』③)。問御所村の新兵衛も米穀の廉売をしているが、三月二十八日から四月十日までの一三日間で、白米一〇八石七斗(一〇〇文につき一升四合)、玄米三石一斗九升(一〇〇文につき一升四合五勺)、大豆六石三斗五升(一〇〇文につき二升)と、総売り上げ金額は銭八三〇貫文余り、一日平均の売り上げは九石余り、六三貫文余となっている(『新収日本地震史料』⑤)。この米穀の廉売で多くの人びとが食糧を確保できたと考えられる。このような施行は相互扶助が息づいている江戸時代の社会ではよくなされることであるが、災害の救済に大きな役割を果たした。領主はこれらの施行者にたいして、酒の下賜、苗字(みょうじ)帯刀や紋付羽織の許可などの褒賞(ほうしょう)をあたえている。
松代城下の肴町では、町奉行の寺内多宮と町検断の伴(ばん)栄作が、今回の災害にさいして多大な援助をしてくれたことにたいし、感謝の念を末代まで忘れないために、毎年お歳暮に鰤(ぶり)一本を贈ることを決めている。また、震災後の救済に大量の米穀を必要としたので、中野代官の高木清左衛門は七月に、越後国頸城(くびき)郡の村々から、米二七〇〇俵(四斗入り)を、柏原宿(信濃町)中村六左衛門の手により買い入れ、そのうち一二〇〇俵を善光寺からの依頼で善光寺にまわしている。さらに、中野代官所では難渋者にたいして十二月に、男一人につき一日籾四合、女子と六〇歳以上・一五歳以下の男子には一日籾二合を、それぞれ五〇日分貸しあたえている。これは震災と水災による米の減収に対応した長期間にわたる救済策である。また、災害の影響は数ヵ月後に村人の生活を悪化させることになり、金箱村(古里)でも秋ごろになると、多数の「極難人(ごくなんにん)」が生じた。そこで十一月に、中之条代官の川上金吾助(きんごのすけ)に、郷倉に備蓄してある米の拝借を願いでている。村人三〇人で一三石四升を拝借し、最大の拝借は八斗四升、最少は一斗二升である。拝借するさいに、返済は一年据え置きで五ヵ年賦で返済するという請書を出している。このように飢饉に備えての郷倉の備蓄米も地震後の救済に活用されており、類似の事例は多くみられる。
領主はこのように被害状況の変化に対応しながら、生活再建の第一歩となる米穀の確保に努めている。主食である米穀については公的扶助、相互扶助の両面から救済がなされている。また、杭瀬下(くいせげ)村(千曲市)の百姓は自助努力でこの米穀不足の危機を乗り越えようとしている。「大地震につき村方議定連印帳」(『新収日本地震史料』⑤)に、「村方小前の夫食(ふじき)差し支え致させまじく、右については、今日限り他所より頼み入り候とも、決して請け負い申すまじく」と他所から米穀譲渡を頼まれても村として引き受けないと取り決めて連印している。これは村の食糧を確保するためである。
江戸時代は災害のときに隣近所や親類縁者をはじめ地域社会の助け合いで乗りきるという連帯感が常識としてあり、善光寺地震でもお見舞いなどを通じての私的な救済を多くみることができる。その一例として、善光寺西之門町藤井伊右衛門家についてみることにする。藤井家は三月二十四日の地震で居宅が全壊している。その夜に鳶(とび)の者など一〇人が手伝いをかねてお見舞いに同家を訪ねている。また、翌日からは、見舞い客が腰村(西長野)・南俣(みなみまた)村(芹田)・茂菅(もすげ)村(茂菅)などの近在から訪れている。見舞いの品々は、「握り飯重箱入り、香の物壱重、握り飯、梅漬け、焼餅重箱入り、餅米」と、食料品がほとんどである。また四月二日には、下戸倉村(千曲市)の親戚坂井家より見舞いの使い三人が藤井家を訪れ、「白米弐俵・煮豆弐重・ろうそく三十挺・甘露(上等な煎茶(せんちゃ))・ずいき(干した里芋の茎)・味噌壱樽(たる)・生か煮付け壱皿」(『新収日本地震史料』⑤)と、やはり食料品が見舞いの中心となっている。坂井家は親戚で豪農商でもあるので、見舞いの品の量は近在の百姓とは比較にならないが、藤井家にとってこの災害時における見舞いは、物質的な面と同時に精神的な面で大きな支えになったと考えられる。
領主間でのお見舞いの品々をみると、善光寺へは禁裏御所から侍従を使いとして白銀一〇枚が下賜され、五摂家(ごせっけ)からも銀五枚の下賜金が寄せられている。これは篤い善光寺信仰によるものであろうが、ときの大本願上人が皇族出身であることも関係しているかと思われる。松代藩主八代真田幸貫(ゆきつら)へは、大名八人から米一九三〇俵(うち三〇俵白米)、約七七〇石のお見舞いがあった。最大は松平甲斐守(郡山藩主)で一〇〇〇俵、以下松平越中守(桑名藩主)三〇〇俵、松平又八郎二〇〇俵、松平紀伊守一〇〇俵(ただし代金七〇両)、諏訪因幡守(いなばのかみ)(高島藩主)一〇〇俵、本多豊後守(ぶんごのかみ)(飯山藩主)一〇〇俵、牧野遠江守(とおとうみのかみ)(小諸藩主)三〇俵(白米)(『新収日本地震史料』⑤)となっている。姻戚関係にある大名と信濃の大名である。
幕府・藩として、災害後の救済活動や復旧作業を円滑におこなうには、社会秩序を維持し無用な混乱を避けることは不可欠である。また、災害の状況や被災地域を早期に正確に知ることで、救済や復旧策なども効率的におこなうことができる。善光寺地震では、松代藩・飯山藩などの諸藩、中野・中之条の両代官所などが災害情報の収集に全力をあげるとともに、幕府へ数多くの「御届け」を提出している。松代藩をはじめとして領主役所は、村役人からつぎつぎに上申される報告、藩役人のたび重なる視察などで被害状況を的確に把握しようとしている。松代藩の「御目付日記」(『新収日本地震史料』⑤)の三月二十五日に、「右に付き町廻り火廻り等、御役方ならび調役・下目付等、二昼夜相廻る」とあり、地震直後に城下を巡回し、治安の維持に努めていることがうかがえる。中野代官所は四月に郡中廻状で、「大地震の虚に乗じ、盗賊ども徘徊(はいかい)いたすの趣、相聞こえ候間、村々役人ども、番人召し連れ、昼夜見廻り、火盗の難これなきよう、心付くべし」(『増訂大日本地震史料』③)と命じ、治安維持の一端を村役人にになわせている。このように地震後の被災地域では、治安対策が人びとの生活を精神的に安定させるうえで大事であった。
善光寺地震で松代領の死傷者は五〇七四人、善光寺町は死者が二五〇〇人余と大きな人的被害があった。人びとは倒壊した家屋の梁(はり)や壁の下になり、圧死人や負傷者が多く出た。医療・救護体制が十分でない当時、負傷した在方や町方の人びとは大きな不安に駆られたと考えられる。そのような状況のもとで松代藩、善光寺町がおこなった救護活動をみておくことにする。「大地震にて、山中筋怪我人、お救いのため、徒士(かち)席医師倉田左高・両角玄脩(もろずみげんしゅう)、上山田村(千曲市)宮原良磧(りょうせき)、矢代村(千曲市)宮島道沢(どうたく)」(『増訂大日本地震史料』③)を四月二日に派遣したとあり、四人の医師が百姓を救済するために山中村々へ派遣されている。また、四月二十日には「大地震にて変死人ならびに怪我人多く御座候につき、御医師会田左衛門殿下され候(下略)」(『新収日本地震史料』⑤)と、倉並村(七二会)へ藩から廻村医の派遣についての触れが回ってきている。被害の大きかった山中へは、医師を巡回させることにより、多くの負傷者の救護にあたったことがうかがえる。
善光寺町では、大勧進が「医者ども、残らず薬箱相損じ、(中略)医師へ手当て金差し遣わし、薬種を相調(ととの)えさせ、寺領ならび参詣者の者、病人これあり候わば、救い療治いたし遣わし候よう申し付け候こと」(『新収日本地震史料』⑤)とある。医薬品購入の資金を大勧進が拠出し、寺領の人びとばかりか、参詣人まで幅広く治療活動をおこなっていることがわかる。このような治療活動は、地震後の社会不安を減じることにつながり、在方や善光寺町の人びとの復旧への意欲を高める契機にもなったと考えられる。