松代藩が地震後に緊急に対応する必要があったのは、犀川堰き止めによって生じた湖水の洪水対策であった。この異変は、川中島平を中心に下流域で大騒ぎとなっており、対策の遅れは社会不安の増大にもつながる。また、対策は川中島平という穀倉地域を水災から防ぐという意味があった。松代藩の対応は早く、三月二十六日には「松代より御家老恩田頼母(たのも)様始めとし、諸奉行・諸御役人早打ちにて、犀川水没場所御見分あり、川中島水ふせぎ御普請始まる」(大久保董斎『弘化大地震見聞録』)とあり、犀口での水除け堤防をつくる普請にすばやい対応がみられる。普請人足は、四ッ屋村(川中島町)をはじめ川中島平の二六ヵ村の百姓が「じょれん・つるはし」持参で、早朝より堤防の普請場で作業し、藩役人も火事装束で指揮にあたるなど非常態勢であった。また、小市村(安茂里)の塚田源吾は人足を慰労する酒を献上している。しかし、この水除け堤防も、四月十三日の洪水で流失し、川中島平の水災を防止できなかった。藩は五月七日、幕府へ国役(くにやく)普請願いを出し、犀川両岸と千曲川・犀川の合流地付近の普請を願い出、その後、復旧、防災のため普請を継続し土堤などを竣工(しゅんこう)した。
この水災で川中島平の上(かみ)・中(なか)・下(しも)三堰は埋没するなどの被害をうけ、田植えの時期を控え用水の早急な復旧が必要となった。用水堰の掘り割り人足には、領内の一五歳から六〇歳までの男子が徴発された。各堰での堰掘り割り人足の総延べ人足数は、五万二四四七人にのぼった。堰別の内訳は、上堰一万二八二五人、中堰七六八四人、下堰二万八四六四人、小山堰三四七四人である。上堰での人足の内訳は「領分出」が九四四五人、そのうち二三一九人が「遠在賃人足」となっている。松代領だけではなく、堰を利用する上田領からも岡田村(篠ノ井)三三八〇人などが人足に出ている。
このような多くの普請人足が集まるので、普請場での統制、秩序維持は復旧作業のうえからも大切となり、つぎのような「定」が設けられた。①勝手気ままに休憩をしてはいけない、②喧嘩口論、諸勝負事の禁止、③普請場での飲酒禁止、④遠村からの人足であっても遅刻禁止と、用水の復旧が速やかに進むように普請場の秩序維持に努めている。これらの堰は五月十四日「中堰普請出来(しゅったい)、今夕七ッ半時水入れ、同日暮れ時過ぎ、上堰、下堰、小山堰水入れ」(『増訂大日本地震史料』③)とあり、洪水いらい、約三〇日ぶりに復旧された。田植えの時期が遅れているだけに村びとは安堵(あんど)の思いであったであろう。
また、幕府領伺去真光寺(しゃりしんこうじ)村(浅川)の真光寺組は土石流により、一六軒が潰れ家、うち三軒は土中埋もれとなり、七七人のうち一八人が犠牲となった。田畑は高四八石九斗三升八合のうち、高四五石六合三勺が荒れ地となり、耕地の九割以上が被害をうけ、農業生産の面からも壊滅的な被害となった。中野代官高木清左衛門は真光寺組の生活再建のために、八月、幕府へ潰れ家一軒につき一五両の拝借金を願いでている。この金額の内訳は、一軒あたり「居宅取り立て分」銭三貫文、「鋤(すき)一丁」一五〇文、「鍬(くわ)一軒二丁」三七五文、などと耕作農具・選別農具・脱穀具から山稼ぎの鉈(なた)・斧(おの)・鋸(のこぎり)まで三七品目の諸道具があげられており、農業生産の復興の必需品がそろっている。これにたいして幕府は拝借金として七両二分の決定をし貸与している。さらに高木代官は拝借金の返済につき、百姓の負担が軽くなる二〇ヵ年賦で返済をと願いでたが、勘定所は一〇ヵ年賦返納の決定をし、高木代官の願いを認めていない。また、御救い米は一四石六升二合が村人に給付されている。このように高木代官は、真光寺組の村人の生活再建に尽力した。村人は嘉永元年(一八四八)、「高木大明神」として石祠(せきし)を造立し、毎年、地震のあった三月二十四日に高木代官をまつり、顕彰しつづけている。このように代官が領民からまつられた例はほかにもあり、中之条代官の川上金吾助の石祠が長沼(長沼)に三基みられる。