善光寺町は震災と火災により、町家は倒壊し延焼して壊滅的な被害となった。その後も余震が激しくつづき仮住まいの生活が長くつづいた。
四月の中ごろから町方のなかに住居を再建する人びとが出はじめたようである。しかし、大工などの諸職人の不足、建築資材の急激な需要増は、諸職人の手間の急騰、資材の値上がりを招き、復旧に障害となった。これらの状況に、善光寺領をはじめ諸藩・幕府領は職人の手間賃値上げ、諸品の値上げの禁止をたびたび触れている。地域全体の問題として、幕府勘定所の「達」が七月には諸藩へ伝達されており、支配領域をこえて諸物価の安定策に取りくみ、復旧を円滑に進めようとしている。しかし、現状は「凶作飢饉等の節と違い、穀類に相響き候わけもこれなき処」とし、また、「利欲に迷」(『増訂大日本地震史料』③)うことが、物価高騰の要因と決めつけ、八月には善光寺横沢町の町人から物価統制令の請書をとるなど徹底をはかっている。また、諸職人の手間賃を七日間につき一分と公定したが、手間賃の高騰などにみられるように、物価統制の効果はあがらなかったようである。
このような職人不足に、松代藩では「職人払底(ふってい)にて、村里小屋掛けもできかね候につき、御郡方より上田御役人へ懸け合い、大工百人御借り入れ、八月二十日より九月十一日頃まで、およそ二十日ほど村々へ貸し渡し、皆々御貸し人に相成り」(『増訂大日本史料』③)とあり、藩では大工を上田領から招いて村々へさしだしている。善光寺神明町(西之門町)の荒物商治右衛門は、八月二十五日に本宅の棟上げをした。間口三間半、奥行五間の家で、大工の手間四日、鳶(とび)の手間四日とかかったが、大工は新潟・越中からきている(『増訂大日本史料』③)、善光寺町の復旧は、他領・他国から多くの職人を迎えいれることにより進められている。
善光寺町は地震後の火災により町家はほとんど焼失した。そのため復旧には各種資材、とくに材木は大量に必要となった。ところが復旧を進めるうえで、木材ばかりでなく、もろもろの資材や道具類の不足も問題となり、その解決のために、町の人びとは多様な対策をとっている。
火災で商店の道具類が焼失してしまい、町内で大工道具の入手ができなかったので、大勧進は棟梁(とうりょう)に金子を渡し、上田城下で鑿(のみ)などの工具を入手させた。また、釘類は人を介して須坂から入手したほか、大勧進裏門内に小屋を建て、鍛冶屋(かじや)を呼び寄せ釘などを打たせた(『新収日本地震史料』⑤)。材木の確保については、左平治は後町(東後町)の家屋再建にあたり、その材木は久保寺村(安茂里)新八郎の潰れ家の材木(杉古三寸五分角長さ九尺八本、杉古四寸角長さ九尺四本、松二寸角長さ九尺六本)一八本を代金一分二八〇文、同村和三郎の土蔵潰れの材木(杉古四寸角長さ二間が二本、長さ九尺が二本、杉古三寸角長さ九尺が一本、杉古長さ二間半九尺が一本、二間半の梁(はり)組一本)七本を一分四五〇文、同村木屋惣七から材木(杉三寸五分角長さ九尺)三本を銀五匁で買い取り、さらに千田村(芹田)の親類喜右衛門の古材を分けてもらって調達した。近在の倒壊した家屋の材木をリサイクルし、材木不足に対応しているのである。そのさい、左平治はこれらの材木の旧所有者について、公事(くじ)方同心に届けを出しており、同心は材木の出所について確認をしている。資材難から材木の盗難がおこりがちなので防止策がとられていたのであろう。また、西之門町の藤井伊右衛門の記録によると、「仮屋を相建てたく候ところ、材木差し支え、川東筋は川留め、山中筋は山抜け道崩れ、牛馬通用これなく」、さらに「近在の分は残らず売り切れ、差し支えにつき」(『新収日本地震史料』⑤)とある。材木の確保は、善光寺町近在では売り切れ、千曲川東からは川留め、山中は山抜けで運送不可能というきびしい状況であった。なお、藤井伊右衛門は茂菅村(茂菅)の喜右衛門が新しい物置をつくる予定で造材してあった新材木を入手している。このため、「材木、板の類も多く来る、馬荷か筏(いかだ)にして、千曲川を下す、おびただし、上は中山道和田峠より出すといへり」(『増訂大日本地震史料』③)と記録にあるように、広範な地域から材木を集めている。
住居の再建は、材木の購入代金など多額の資金が必要となる。資金をどのように調達したかを善光寺西町(西町)庄屋銀兵衛の場合でみていくことにする。銀兵衛は有力な商人であるが、弘化四年十月、約八四坪の屋敷地を担保にして、仮住居の再建などの資金として一三〇両の大金を松代藩から拝借している(『市誌』⑬二一九)。利息は年利一割一分の低利である。有力町民が藩から借金をするほど、再建資金の調達は困難であったことがうかがえる。松代藩は十二月、善光寺町商人救済のために総額一一〇九両を二一人の商人へ年利一割一分で拝借金として貸与している。最高金額は一〇〇両で二人である。善光寺町の復旧を藩が支援していることがわかる。
北国街道善光寺宿も、本陣・問屋などが焼失し、その機能は一時的に麻痺(まひ)した。本陣の藤屋平五郎は、参勤交替などで利用する加賀藩に、再建資金として一五〇両の拝借願いをしている。十月、加賀藩は最終的にこの一五〇両について、本陣の普請金として貸与している(小林計一郎『長野市史考』)。地震後の火災で善光寺の寺中四六院坊は、すべて焼失する被害となった。今後の参詣者の宿泊などを考えると、院坊を早く再建することも急務であった。各宿坊は全国の各郡を持ち分として所持しており、持ち分である各郡の信徒の浄財により、再建資金が調達された。たとえば正信坊では、住職が「拙寺再建にて、一濃州(岐阜県)武儀郡、一同羽栗郡 一尾州(愛知県)葉栗郡」を「拙僧中正月十八日出立致し候、三月二十二日帰国」(小林計一郎『善光寺史研究』)と、震災の翌弘化五年(一八四八)正月から三月まで、再建の勧進(かんじん)に持ち郡を回っている。宿坊の復旧が善光寺信徒の寄進に支えられていることがうかがえる。
善光寺では、本堂以外は潰れ・半潰れになったり焼失した建物が多かった。仁王門は焼失した。その復興につき嘉永二年(一八四九)七月下旬、「二王門御材木、大町(大町市)辺より犀川へ流し、市村(芹田)より近郷村々、寄進人足にて引き揚げ、北御屋敷裏門へ引き込み相納め申し候」、また、「御寺領町々へは人足仰せつけられ、町々隔番にて材木引き上げ申し候」(「小野家日記」『長野市史考』付属史料四五)とある。寺領町々が人足を出して資材を運ぶなど町方の負担で復旧が進み、元治元年(一八六四)春からは「江戸より大工、鳶者(とびのもの)まで参り」と本格的に復旧が進み、仁王門は翌慶応元年(一八六五)七月二十日落成している。寺院の用材は大木が必要であり、大町など遠方から求め、河川を利用して運搬している。仁王門落成までに善光寺地震いらい一八年がすぎており、善光寺の復旧はたいへんな事業であった。