善光寺地震の災害記録にはさまざまなものがある。書き手の身分も藩家老・藩災害係・名主・寺子屋の師匠と多彩である。その内容も単なる人伝えの聞き書きから、自分の体験の克明な記録、被害状況についての客観的な記述、災害への恐怖、神仏への畏敬などと、地震前後の人びとのようすが鮮明に伝わってくる。また、善光寺地震では、地震についてのかわら版(読売)・絵図類が商品化され販売されるなどの特徴もみられる。
災害記録は内容・記録者などにより、①藩政史料、②村落行政史料、③個人的体験日記・見聞記、④摺物(すりもの)類と四区分できる。①「藩政史料」として地震被害の「届け書」がある。藩主・代官などが幕府へ提出した被害の報告書である。松代藩主真田幸貫は、三月二十六日から七月九日のあいだに七回の「届け書」を提出している。内容は公的記録であり、被害数値の信憑性(しんぴょうせい)は高い。「達(たっし)」は幕府から大名や代官など幕府役人にたいして発した命令などである。「達」からは幕府の救済策としての拝借金・国役普請・物価統制などが知られる。
『むしくら日記』(『新史叢』⑨)は、松代藩家老の河原綱徳(かわらつなのり)がその手記を整理したもので、地震発生のさいの状況、領内からの報告、被害状況の詳細、犀川の洪水、松代藩の幕府への届け書の案文(あんぶん)など、公的な記録として客観的な記述であり信憑性が高い。また、日記に「御城下火災なきは実に、君上の御徳によれり」とあり、家老として主君の御徳に結びつけて災害をとらえており、武家の災害観の一端がうかがえる。ほかに家老鎌原桐山(かんばらとうざん)の「地震記事」がある。②「村落行政史料」として、各村からの被害届、救済願いの控え、御手充金(おてあてきん)の請書、御普請願いなどがあり、被害届は一定の様式があったようである。これにより領主は被害状況を的確に把握できたのである。③被害地域を中心とした個人的体験日記・見聞記には多くの記録がある。書き手も百姓・町人・藩士・勤王の志士と多彩である。『地震後世俗語之種』は書き手である権堂村(鶴賀権堂町)名主の永井善左衛門幸一が地震当夜、善光寺境内におり、そのときの体験と聞き書きを子孫に残したものである。現存する多くの記録のなかで本書は、挿し絵が実にリアルであり、震災・火災・洪水にわたる善光寺地震の被害状況が、文献史料だけからはうかがえない生々しい臨場感で伝わってくる絵画史料でもあり貴重である。現在この『地震後世俗語之種』は永井家本・真田宝物館本・国立国会図書館本の三部があることが判明している。
『弘化大地震見聞記』の書き手は大久保董斎(とうさい)で、小森村(篠ノ井)在住の寺子屋師匠でもある。郡(こおり)奉行山寺源太夫の門下生でもあり、佐久間象山とも親交があるなど、小森村の有力な在村文化人でもあった。董斎は自分が体験したことを記述し、とくに洪水を自分で体験し、洪水の状況を克明に記しているが、被害の詳細な数値は記載していない。また、本書のなかでいくつかの絵図を残し、自分がじっさいに歩いた道程が記され、絵図に短い説明があるなど、被災直後の状況を知ることができる貴重な記録である。
『時雨廼袖(しぐれのそで)』に収められている芦沢不朽(ふきゅう)の『帰郷日記』は、不朽が江戸で善光寺地震を聞き、五月五日江戸を立ち、故郷の水内郡柳新田村(飯山市常盤)に帰郷し、六月六日江戸に帰着するまでの三〇日間の日記である。不朽は壬生(みぶ)藩(栃木県壬生町)の藩士である。日記は地震四〇日余りのちの被災地を訪ねて記したものである。不朽は北長池村(朝陽)で「地震の節、気を転倒致し本性を失い、今もって正気付けざるもの、おびただしくこれあり候」と書くなど、内容に災害時における人間の精神的な面についての挿話・見聞がみられ、地震災害が人びとの日常生活にもたらす精神的な影響についても多く記述している。日記には二二件の挿話があるが、そのうち一四件は地震前後の人びとのさまざまな心理的状況を記している。不朽の日記は、地震で痛手をうけた庶民の精神的な面にも視点を向けているのが特徴であり、精神面の被害を示す資料が少ないだけに貴重である。
『柏崎日記』(「柏崎日記下」澤下春男校訂)は桑名藩(三重県桑名市)の飛び地、越後柏崎領(新潟県柏崎市)の渡部勝之助の日記である。この日記は天保十年(一八三九)から嘉永元年(一八四八)までの一〇年間、日常のことがらをじつに克明に記しており、武家の生活、価値観、民俗的な面からも貴重である。
善光寺地震については、柏崎での三月二十四日の状況が克明に記されている。また、桑名藩主の松平定永は松平定信の長男で、松代藩主真田幸貫の兄にあたる。善光寺地震後、桑名藩はただちに「お見舞い」として米三〇〇俵を松代藩へ送ることを決め、柏崎から米を送る手配をした。その担当者として、この日記の書き手である渡部勝之助があたることになり、六月十四日駕籠(かご)で柏崎を立ち松代に向かう。各宿場で、問屋との運賃の交渉をするが、地震後の悪条件により「御定め賃銭の三割増し」で約定するなど苦労が生々しく記されている。地震後八〇日が経過しているが、北国街道筋の各宿場の復旧が遅れ気味であることも宿泊状況などでわかる。松代城下の復旧のにぎやかなようす、松代藩役人の応対ぶり、地震後の人びとの生活などのほか、被災地域を訪ねた渡部勝之助の感想も記されており、地震後の被災地域の現状を克明に伝えてくれる記録である。「お見舞い」の米は、欠け米分として二〇俵が加えられ、三二〇俵が新町(あらまち)宿(若槻)で松代藩に引き渡されている。
『西遊草』(岩波文庫)は幕末の勤王志士清河八郎の旅日記である。安政二年(一八五五)三月、清河八郎は鶴ケ岡(山形県鶴岡市)を伊勢参りのため母親と出発、越後路から信濃に入り、地震後八年が経過した北国街道筋の宿場についても記述している。柏原・古間(信濃町)、牟礼(牟礼村)などの復旧の遅れが具体的にわかる。善光寺町では藤屋平左衛門方に宿泊している。善光寺では、門前の活気あるようすなどを記す。善光寺の復旧ぶりがわかる。稲荷山宿(千曲市)では知人を訪ねているが、三月十五日の日記に「稲荷山は以前はよろしきところなれども、地震のとき焼失致し、家なみ疎々(そそ)としていまにさみしきありさまなれど」とあり、復旧の遅れが記されている。地震後の復旧が在方と善光寺町とでは差が出ており、地震後の復旧のきびしさがうかがえる。
「摺物・絵図類」は善光寺地震の直後から、半紙一枚摺りで絵入りものなど多様な「かわら版」が地元発行でも出版されている。善光寺という全国的に信仰を集めている地域での地震災害なので、多くの人から関心を集め、「かわら版」が善光寺地震の情報源として販売されたものである(北原糸子「近世情報論」、『国立歴史民俗博物館研究報告』九六集)。松代藩でも三月晦日(みそか)出版の「かわら版」などをふくめ数種類を収集している。
「絵図」は災害の状況を視覚的に知ることができ、効果的な情報伝達が可能でもある。松代藩が作製した「信州地震大絵図」は震災・水害・山崩れが色分けされて描かれ、村名が記されており、被害状況が一目瞭然(りょうぜん)である(口絵参照)。被害地域も南は松本藩、北は飯山藩と広い地域が描かれている。善光寺地震の被害の全容を知るには最適の絵図である。藩が幕府へ被害報告をしたさいなどに活用されたのではないかと考えられる。松代城下から離れた周辺の村の一部に地理的位置の誤りが見られるが、絵図としての価値には支障がないと思われる。
絵図のなかには、商品として販売された「弘化丁未(ひのとひつじ)信濃国大地震之図」(二枚組)がある。これは上田領上塩尻村(上田市)の原昌言(まさこと)が発行した木版刷りの災害絵図である。この絵図の出版については、正式に昌平坂(しょうへいざか)学問所の許可を得て出版、販売されている。原昌言はこの絵図の販売のため、江戸の上田藩邸などを訪ねている。松代藩はこの絵図を六五部購入している。代金は一部銀八匁五分(ふん)であった(北原糸子前掲書)。